精神障害者に対する、日本の法律を学ぼう① | ティル・ナ・ノーグ Tir na n-Og
ようやくそれらしい文題になりました!法律と一口に言っても、民法や刑事法だなどと、その気になっていたお前の姿はお笑いだったぜ!挙げればキリがないですね。一体日本にはいくつの法律があるのかというと、約1800種類もあるそうです!
ちなみに日本で一番条文が多いとされる民法は第1044条まであります。これでも世界的に見れば少ないのだとか。
「法律家になりたい!」と壮大な夢を持っている方は、条文だけを覚えるのが全てではないですから、判例なども加えて実質数千にも及ぶものを理解しないといけません。んああ仰らないで、私には無理です
∑(-x-;)

そんな約1800種類のなかに含まれる1つだけを抜き出して徹底的に覚えられたら、割と楽な気がしないでもないですね(笑)

このシリーズは、精神障害者に対する日本の法律ってどうなってるの?という自らの疑問を、ブログを観て下さっている皆さんと一緒に、研鑽しようと立ち上げました。

法律




精神障害者に対する法律の歴史


何にせよ、まずは法律制定から現在までの歴史を概観しましょう。はっきりいって、精神障害者に対する日本の姿勢は偏見ばかりです。今この時だって「精神異常者は一生病院にブチ込んどけ!!」といっている人も少なくありません。
あまり時を遡りすぎても仕方ないので、1900年頃から入りましょう。

①相馬事件と精神病者監護法
明治の中期ごろ、旧中村藩(現福島県相馬市)の藩主・相馬誠胤(ともたね)が精神障害を患い自宅監禁・入院されていたことに対して、藩士であった錦織剛清(にしこりたけきよ)が「我が主は、家を乗っ取る陰謀で監禁された」と告発──
どうやら
相馬誠胤は若いころに家督を継いだそうですが、その莫大な財産を横領し家督権を得ようとした志賀直道らの一連の陰謀によって不当な監禁をされたのだとか。
剛清が告発したり逆に告発されたり……最終判決では剛清が敗訴しましたが、ここまで10年を要し、政府の役人をも巻き込んだ大きなお家騒動でした。もちろん各々新聞社もこの騒動を大々的に取り上げました。
この事件によって明治政府は「精神障害者の不当監禁を野放しにしていいの?」という問題点に立たされて、「全国統一の精神障害者取り扱い法を作ろう」という機運が高まりました。そもそも私には精神障害者を『取り扱う』事に対して不満なのですが…。

満を持して制定された精神障害者に対する初めての法律が、1900(明治33)年の「精神病者監護法」です。

しかしこれは悪法です。精神病者を自宅や病院に閉じ込めておくことが前提の法律で、精神障害者=社会の害悪としてみなされていました(前述したとおり、今もそう思っている人は必ずいます)。つまり、治安維持のために精神障害者を自宅に監禁(私宅監置)することを法律で合法化しました。その監禁にあたっては、監護義務者という、家長や家族が精神病者の監視役を必ず立てて(政府の責任逃れ)、かつ外に出ないように牢屋を作りなさい(牢屋を建てる費用は自己負担)と規定。ムゴイ。。。

②呉 秀三と精神病院法
1910年、東京帝国大学の教授であった呉 秀三(くれ しゅうぞう)らは、医学部精神病理学教室で精神障害者の私宅監置制度の調査を始めました。その8年後に著書『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』で私宅監置の凄惨さを書き綴ります。「我 邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ」
──精神障害者は、当時どんな治療を受けていたのでしょうか。治療(?)の一つに、灌水(かんすい)療法というものがありました。
1.障害者を金属の鳥かごのようなものに入れる
2.手錠と足枷などの拘束具で出られないようにする
3.滝などの冷たい水に半日うたせる
4.「あらっ、障害者が静かになったわ!!」
以上。治療?って思うかもしれませんが、『国の治安維持』のために監護義務者がこんなことをして暴れるのを防いでいたそうです。だって義務だから。。。
そんなことを黙認する政府を糾弾したのが、呉らの言葉でした。重い腰を上げた政府は「監護ではなく医療に力をいれよう」として制定した新たな法律が、1919(大正8)年の「精神病院法」です。

この法律では
私宅監置を撤廃促進のため都道府県(当時は道府県)に、公立の精神病院を設置「してもいいですよ」と定めたものです。この法律も目的としては「社会の害悪たる精神障害者から、国民を守る為」に精神病院を設置する必要性が高まったとされます。なぜ義務としなかったか……当時は戦時中です。少しでも戦時費に財政を回したかった政府の思惑があり、法律はできても精神病院なんてほとんどできません(名ばかりの法律)。よって私宅監置は廃止されませんでした──つまり1900年の「精神病者監護法」を廃止するという文句は法律に記載されていないことに着目しなくてはなりません。

③終戦と精神衛生法
1945(昭和20)年、日本は太平洋戦争に敗戦。長期にわたった戦争はピリオドを打ちました。戦後は高度経済成長を機に国の在り方も「治安モデル」から「医療モデル」へと転換していきます。「精神病院法」で息巻いていた「医療に力を入れる」という文言も、ここにきてようやく体を為してきます。

1950(昭和25)年、「精神病者監護法」および「精神病院法」廃止する(⇒私宅監置の撤廃)と同時に、新たに「精神衛生法」が制定されました。この法律は現行の「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の根幹をなすものです。ただし現行法とは違い、当時は50年も続いた私宅監置という「精神障害者は施設収容すべき」の名残が強くあり、あらゆる民間病院へ強制入院をさせることが目的となっていました。この法律、実は精神病院を都道府県に必ず設置しなさいという規定が盛り込まれており、とにかく精神病床を増やすことが目的でした(政府が病院建設のために国庫補助を始めるほど)。
『戦後、街から精神障害者が消えた──』と言った人がいるほど、この政策は爆発的なものでした。精神障害が治ったことで『消えた』のではなく、入院で『一掃された』という解釈が合っています。入院した患者は「入り口あって出口なし」というように「退院」ということは全く考えられませんでした。では、私宅監置で酷い扱いを受けていた精神障害者は、果たして精神病院でどのような処遇を受けてきたのでしょう?それはまた後ほどお話します。

④ライシャワー事件と精神衛生法改正(昭和40年改正)
精神衛生法によって、いわゆる私的な監置から公的な監置へスライドましたが、その内容は「精神障害者の隔離収容」です。昭和30~40年頃は「精神病院ブーム」と呼ばれる時代になり、増床に次ぐ増床で医療従事者の不足や劣悪な環境下での収容が目立ち始めます。そんな中、治療の一つに薬物療法という手段が見出されました。それが昭和30年に日本で初めて使用された向精神薬「クロルプロマジン」です(現在もあります)。こうした薬物療法の一般化により短期入院・予防に対して光が当てられるようになったのです。
ただやはり、精神障害者の治療施設を精神病院に限定したことが、失策の一つでもあると考えられます。そして強制入院の制度。これもまた、人権に対しての配慮が足りなかったといえます(不当に入院させられた人もいる──相馬事件のようですね)。

昭和40年、精神衛生法が法改正されます。内容は、薬物療法の成果による「状態の良くなった者を退院させる」こと……のはずでした。法改正の前年、ライシャワー駐日大使が、統合失調症(当時は精神分裂病)を患った少年にナイフで刺される事件が起こりました。この事件は日本の大失態ともいわれるもので、天皇、皇后、皇太子夫妻が見舞いに来られるほどの国際的な大問題となったのです。
メディアはこぞって「精神異常者を野放しにするな!」「日本の精神医療体制は杜撰だ!」とまくし立て、国民の支持を集めます。そうして法改正がなされるわけですが、その目的は「さらなる治安の強化」にすり替えられました。本人の意思を問わない強制入院を基礎として、精神障害者は重大な犯罪をおかす存在であるので、警察官らの通報を強化しなさい、というものでした。改正よりも“改悪”。
精神障害者への人権は一体どうなってしまったのでしょう。。。

⑤人権に対する事件が勃発
入院してしまった精神障害者本人は、外界へ自分の声を届けることはできませんでした。昭和40年の改正によってより社会から隔離されてしまったためです。

まず第一の事の起こりは昭和48年。日本中の精神科ソーシャルワーカー(Psychiatric Social Worker=PSWの日本名)が一堂に集う大会で、Y氏と名乗る男性が昭和44年に不当な入院をさせられたことを提起します。「あなた方PSWは私の意向も受け入れず勝手に精神病と診断して、無理やり病院に入院させた」とし、参加した全国PSWの前で人権侵害の加害性を指摘。これをY問題と呼びます。

さらに昭和59年には宇都宮病院事件が発覚します。これは当時入院していた患者が、看護スタッフから鉄パイプで暴行を受けてリンチ死したものです。調査を続けると、無資格者が診察を行っていたり、カルテを改ざんしたりと、非人道的行為が日常的に繰り返されていたことも分かりました。宇都宮病院に限らず、他の精神病院でも病棟内暴力や不正行為が次々と暴かれ、外界から遮断されていた病院の中で入院患者への処遇はこんな形で浮き彫りにされていきます。日本の精神医療が世界からパッシングされる形となりました。

⑥人権擁護と精神衛生法改正(昭和62年改正)
多くの犠牲を払い、昭和62年に精神衛生法が改正されます。この改正と同時に「精神保健法」と名称を改め、法の目的に「入院患者の人権擁護」「精神障害者の社会復帰の促進」を初めて明文化しました。ただしここで言う「社会復帰の促進」はすなわち退院のことです。この段階ではまだ退院が目標であったため、結果的には不充分な内容かもしれませんが、人権に配慮した適正な医療の確保を謳ったものとして評価すべき改正といえます。また入院手続きにおいても、これまでの強制的な入院形態を緩和し、本人の同意があってはじめて入院できる体制も整えました(現在では当たり前のことですが…)。

⑦現行法の成立まで(1995年)
さて、ここまでで一つも挙げなかった項目があります。それは精神障害者の定義です。1993(平成5)年に「障害者基本法」が施行されます。この平成5年の障害者基本法に、ようやく精神障害者が「障害者」の定義に含まれました。障害者基本法の前身は昭和40年に制定された「心身障害者対策基本法」ですが、この中での障害者とは身体障害・知的障害(当時は精神薄弱)者など、とされており、精神障害は「など」の中に含まれた曖昧なものでしか位置付けられていませんでした。

これを機に、精神保健法は1995(平成7)年に大きく改正され、「精神障害者も福祉の対象に」という考え方と、社会復帰の促進(退院)から「自立と社会参加の促進(Social Role Valorization)へ」の理念が追加され、法の名称も「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(精神保健福祉法)と変わります。
この後も平成11年、平成17年、平成22年に大きな改正がなされますが、これは次回以降、詳しい条文の中で触れることにしましょう。