「死ぬ気でやってみろ!」というのは、指導者の格好がつくから言ってしまっているのではないか… | こりーさんのブログ

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長男と共に37歳でサッカーを始めた父が、サッカー、子育て、ユーチューブや他競技から学んだこと、感じたことをなどをブログに綴っています。
「気づき」や「感じたこと」を伝えていきたいと思っております。

カバーが一世風靡セピアなのはかっこいいからで、皮肉などは込められてなく、単にかっこいいから使ってみたくて使いました。

 

今回のブログでは取りようによっては性表現ともとれるような文章があります。不快に思われる方は読まないことをおすすめします。

また、恥ずかしい文章を読んでしまったと思った方は、読んでないようなふりをしていただけると、お互いのためにもなるのでよろしくおねがいいたします。

しかし一方で、豪快にかぶせてくるのも決して嫌いではありません。どちらにしても読んでいただいた方にお任せします。

 

それではおまんたせしました、以下本編となります。

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夕食時、サッカー帰りの息子がチャーハンを食べたいというので作れるかと尋ねたところ「無理!」と返されたので、「できなかったら死ぬって言われても無理なのか?!簡単に無理という言葉を使うな!」と大人気ない返答で応戦。

 

ちょっと冷静になり、「安易に無理という言葉を使う習慣が子供にもついているので、そうではなくて、母としてちゃんと夕食は作ってあるので、今日はこれを食べてください。これ以上の家事はやりません。と、伝えて欲しい」と言いなおした。

 

自分で「できなかったら死ぬって言われても」と言ったことで、よく日本人は「命がけで」とか、「死ぬ気で」とか言うが、熱心にやることと、命を捨てることを表現のうえでは安易に一緒くたにしてしまっていることに気が付いた。

(おそらく何かを失うかもしれないからこそ、何かを得られるということで、つり合いが取れて心が納得する。という心理的効果が背景にあるような気はする)

 

情熱的に何かに夢中になることは大きな飛躍につながることではあるが、その引き合いとして出す言葉が「死ぬ」であることはあまり好ましくないと感じる。

 

自分から「死ぬ気で」とかいう人はだいたい死なないし、指導者であれば、死ぬほど頑張ると死ぬ前に倒れたり、故障したりしてしまう事わかっているはず。

つまり死にはしないと分かっているのに「死ぬ気で」といった大げさ表現をしているのである。

 

それでも私たちの社会では、言った人がカッコよく見えるためか指導者が「死ぬ気でやってみろ!」的なことを言っている場面をよく見かける。

 

根本的なことを考えると、心の底からがんばることは、人に言われてできることなのだろうか、という部分にも疑問が残る。

 

言葉が本人の自発的動機づけのきっかけになった時に、心の底からがんばることができるのではないのだろうか。

 

自発的モチベーションが死を引き合いに出して生まれる場面とは、戦争の際に家族を守る。突然クマが現れたから自身の命と引き換えに他者を守る、というような場面に限定されそうな気がする。

 

つまり、自己実現を目的とした頑張りにおいては、死を引き合いに出すことは不適切で、「しっかり練習したらすごくいい選手になるのにもったいないな~」「ちゃんと練習してゴール決めたらいい車乗れるよ!」「守備も頑張って走ったら、モデルののお姉さんとつきあえちゃうよ!」と言った方が、本人の内発的動機付けにつながるのではないかと思う。↑(事例が直接的な動機ではなく間接的なものもあるが、おどしてがんばらせるのではない方が良いとは思うので…)

 

そしてまた、夢中で好きなことを行っている時には、自分が頑張っていることなど、気が付かないのではないだろうか。

 

例えば私が中学・高校の頃にはドラクエやFFの新作が出ると学校を休んで眠りもせずに20数時間かけ一日でクリアするような友人もいた。

学校を休んでTVゲームをしているなど、遊び以外の何でもないので、眠らずに20時間以上かけて達成した取り組みは頑張りでも努力でもなく、学校を休んで遊んでいる怠け者の所業である、と皆には判断されていた。

 

それが行くとこまで行ったのが韓国のネットゲームの話題だが、

News:86時間連続ネットゲームで死亡? (itmedia.co.jp)

上記ニュースの引用では、

男性は3日半以上にわたって連続でネットゲームに没頭していたらしい。従業員によると、男性は死亡していたのが見つかった1時間前にトイレで気を失って倒れていたが、意識を取り戻すとすぐにゲームを続行した、という。

 

7回転んでも8回起きてきそうなこの意欲は、努力や根性ではなく”情熱”が原動力だと自身は感じる。

 

痛ましい事件であるが、続けること以上に休むことやめることの方が本人には難しい選択であるほど、ゲームに夢中になっていたことは感じ取れる。

 

かく云うわたしも、中学生時代には死とは程遠いが、血が出るほど夢中になって取り組んだことがある。

何に?といわれると、ナニであるが…

 

 

ハットトリックを決めた後、自身の第3の足からは血が出ていたが、しかし誰に言われるでもなく、まだ終わってはいないことが自分にはわかっていた。

 

「こーなりゃとことんイケイケだ!」

↓この人の言ってた台詞。

 

自身の情熱で疲れ切った第3の足をふたたび奮い立たせて、一日に4ゴールというハットトリック越えの快挙を上げたことがあった。

(ちなみに友人には一日12ゴールという者もおり、世界には自身が足元にも及ばない猛者もいるということを知りました。)

 

内発的動機付けによって夢中になって取り組むことは、痛みや血が流れることでさえも私を止めることはできなかったのだ。

 

また、頑張ることについて話を戻すと、

一時的な情熱以上に「毎日少しずつの積み重ね」の方が、大きな成果を上げることもある。

 

雨の日も風の日も、やる気のいまいち湧かない日も続けることは情熱に任せて命がけで頑張る以上に実現が難しいこともある。

 

私たち大人はそのことを知っているが、毎日の黙々とした積み重ねの大切さを、インパクトのある言葉で伝えることは意外と難しい。

 

仲間と日が暮れるまで一対一をするような燃えるような情熱と、平常心でいつも心に携えているような想い、その両方を前向きな言葉で伸ばしていけるとよいなと思いました。

 

そんな話をしていたら、大原麗子さんのCMがフラッシュバックしてきた。

「すこし愛して、なが~く愛して」
来る日も来る日も想い続ける、そんな愛もありますね。

 

次回はがんばったけど、それ以上に遊び倒した山の話と、夏なので金縛りと幽霊とセミの話をできればと思います。

 

サボらないように、一応記録に残しておきます。

リフレーミングの話もそろそろできればと思っています。

 

よろしければ、なが~い目で見てやってください。