「熊は元来、臆病な動物である」

 

専門家は、この勝手な思い込みを捨てなければいけません。

野生動物を人間の物差しで測ってはだめです。

 

熊も生物の一種であり、ただ自然淘汰の原則に従っているだけ。

どういうことか。

 

人間が十人十色であるのと同様、さまざまな性格の熊がいます。

気が弱く人間の臭いをかぎつけただけで逃げ出す熊もいれば、自動車や鉄道すら怖がらない、ずうずうしい熊もいる。

 

まだ猟師が大勢いたころ、人を怖がらない「イケイケ熊」は、人里に下りてきては駆除されていたため、人を怖がる「ビビリ熊」たちが山奥で命をつないできました。

 

その遺伝子のおかげで、熊は「臆病な性質」となったわけです。

 

つまり、種が生き延びるためには、「ビビリ」であるほうが生存に有利に働き、より(人間が近くに住む)環境にマッチしていたということ。

「元来臆病」なのではなく、「臆病なやつが生き残ってきた」と解するのが正解。

 

ところが、人間が熊を駆除しなくなったせいで、これまでは「環境不適応」で淘汰されていたはずの「イケイケ熊」が、殺されずに見逃されるようになりました。

この環境の変化は、熊たちにとっては、生存戦略を180度反転する大事件!

山奥でわずかな木の実を探すより、人里を漁ったほうが、栄養価の高い食べ物が簡単に手に入るからです。

 

山奥に隠れる「ビビリ熊」が、栄養が足りずにろくに子熊を産めないのに比べ、肥えた「イケイケ熊」はぽんぽん子熊を出産し、勢力拡大。

生まれた子熊たちにも、当然「イケイケ遺伝子」が備わっています。

 

というわけで、今や「イケイケ熊」のほうが環境にマッチし、優勢に立ってしまった。

これこそが「進化論」「自然淘汰」の「核の部分」なのです。

※もう少し詳しく知りたい方は、「ドミトリ・ベリャーエフのギンギツネ実験」を検索。

 

残念ながら、彼らを再び「ビビリ熊」に戻すには、「イケイケ熊」を駆除し、「ずうずうしい遺伝子」をひとつひとつ排除していくしかありません。

これは、愛玩動物に対する「品種改良」のような作業です。

 

 

ときおり

 

「熊を絶滅させるべき」

 

という暴論を見かけますが、そんなのはまったくの論外。

そもそも熊、鹿、イノシシがここまで増えた理由の一つは、

 

ニホンオオカミを絶滅させてしまったから

 

です。

それが生態系のバランスを崩したのです。

熊を絶滅に追い込んだら、同じ過ちを繰り返すことになります。

あまりに発想が短絡にすぎます。

 

 

 

 

 

 

ここで(中学生でもわかる)簡単な問題です。

 

A×B=X

 

という方程式があるとき、右辺Xの値を小さくするにはどうすればいい?

 

もちろん、左辺のAまたはB(あるいは双方)の値を小さくすればよい。

 

この計算式は、議員(地方、国会)にかかる経費を表したもの。

 

A(人数)×B(1人当たりの経費)

 

を指します。

 

つまり、議員にかかる経費を減らすには、「A×B」を小さくすればよいわけです。

 

 

どうやら誕生することになりそうな自民+維新の

 

「連立烏合政権」

 

は、上記計算式の「A」を減らすことで「X」を小さくすることに合意したようです。

 

これについて、各局のキャスターやコメンテーターが好き勝手述べていますが、私に言わせれば、

 

どいつもこいつも思慮が浅い!

浅すぎる!!

 

 

ここはひとつ、民主主義の原点に戻ってみましょう。

 

民主主義の大原則が

 

最大多数の意思を反映する(多数決)

 

にあるなら、あらゆる議題に

 

全有権者が直接投票できる

 

ことが本来の理想であるはずです。

 

でも、肥大化した社会では物理的に不可能。

数千万人が議題の一つ一つに投票し、それをいちいち集計するなんて、あまりに非効率で非現実的。時間と金がいくらあっても足りません。

 

そこで、我が国では、議員という「代表者・代弁者」を選ぶことで、「間接民主主義」を採用しているのです。

 

ところが!

なんと「高度IT社会」の到来で、

 

全有権者による直接投票

 

が、ただの夢物語にとどまらず、実現可能性が生まれてきました。

「ネット投票」を望む声が増えてきたのは、技術的にクリアできる未来が見えてきたからです。

 

とはいえ、実際には、セキュリティやデジタルデバイドの問題もあり、たやすく「明日から施行」とはいきません。

 

 

もとい。

繰り返しますが、民主主義の基本は

 

できるだけ多くの有権者の意見を反映する

 

ことにあります。

 

だとすれば、現在の「少数の議員による間接民主主義」から「全有権者による直接民主主義」に近づけていくことが、

 

政治の進化・進歩

 

と言えます。

 

自民・維新の「連立烏合政権」が向かっているのは、それとは真逆の方向です。

 

政治の退化・後退

 

以外の何物でありません。

 

少人数による寡頭政治は、いずれ必ず「独裁主義」にたどり着きます。

 

 

私が知る限り、こうした「民主主義の原理原則」という視点から発言しているキャスター、コメンテーターは、一人もいません(もしいたらごめんなさい)。

 

いまだに、「議員数を減らせば経費を削れる」と誤解している人間がいかに多いことか。

それこそメディアの嘘に騙されているだけです。

 

ここではっきりと断言します。

 

議員をいくら減らしても、経費は一円たりとて削減できません!!!

 

なぜか?

早晩、「議員数が減って議員一人当たりの仕事量が増えたから、定数削減で削った分の経費をみんなで山分けしましょう」と言い出すからです。

実際、地方議会では、すでにその流れが定着しています。

 

 

冒頭の計算式に戻りましょう。

 

A(人数)×B(経費)

 

の「A」を減らせば減らすほど「B」が増えていくので、けっきょく合計「X」はずっと変わらなくなるのです。

 

ここで「逆転の発想」が必要です。

 

「A」を増やし、「B」を減らすというやり方です。

 

議員数を増やすことは、「できる限り多くの有権者の意思を反映させる」という「民主主義の原理原則」にかなうもの。

 

これこそが「政治の進化」です。

 

そのぶん経費を減らせば、たとえ総額は変わらなくても、政治の中身がよりソフィスティケート(洗練)されたものになるのです。

 

付け加えると、議員数を大幅に増やすことで普通の人も立候補しやすくなり、政治がぐっと身近になります。その結果、投票率は確実に上がります。

 

 

こういう話をすると、どの議員も判で押したように

 

「政治には金がかかる」

「秘書を雇うのに金が要る」

 

と口をそろえます。

 

でも、これにも有効な解決策がちゃんとあります。

 

それは、

 

企業・団体献金の禁止とセット

 

にすることです。

 

 

献金を禁止したら、ますます金に困っちゃうじゃん!

 

ブッブー! はずれ!

もっと広い視野を持ちましょうね。

 

 

支持する議員への支援は、必ずしも金銭だけに限りません。

もしある企業が特定の候補者を支援したいなら、「金銭」ではなく、代わりに「労働力」を提供すればいいのです。

 

自社の社員を「秘書」として、当該議員の事務所で働かせればよい。その「秘書社員」の給与は、当然ながら会社持ち。今まで企業献金していたぶんを充てるだけ。

 

議員にバリバリ働いてほしければ、自社の中でも特に有能な社員を割り当てればよいし、有能な社員をそんなことに使いたくないと無能社員を充てれば、当該議員もろくすっぽ仕事ができなくなります。

 

また、調子に乗った世襲議員などが秘書にパワハラ的言動を繰り返せば、肝腎の労働力が次々と去っていき、痛い目を見ることになるでしょう。

 

これまでは後ろ盾のなかった市民代表の議員も、手弁当のボランティアが手足となって動いてくれれば、ベテラン議員以上の働きが期待できます。

真に善良な議員であれば、優良なスタッフがついてくれるに違いありません。

 

どうですか?

少なくとも今の「ヤミ献金」ばかりの政治より、はるかに透明性がアップすることは保証します。

 

 

まあ、細かい点は、もっといろいろ考えなければなりませんが、「民主主義の進化」という点では、この方向こそが「正解」であると自負しています。

 

 

まとめると

 

・議員数を減らすのではなく増やすべき

 

・企業・団体献金を全面禁止にし人的支援の形にする

 

この2点が、今の日本の政治に強く求められているものです。

 

 

「自分勝手な考えは醜悪」って、まさにご自分のことですか?

 

 

私が彼を賢く思わず、軽蔑する最大の理由は

 

数字でしか物が見られないから

 

です。

 

「金を稼ぐことが正しい」

 

というのは、誤った「資本主義の嘘」です。

 

『星の王子様』にあるように

 

「本当に大切なものは目に見えない」

 

のですよ。

 

こうした感性を持ち合わさない人間が大金を手に入れることは、悲劇以外の何物でもありません。

 

 

私は、こういう事態を恐れているのです。

 

もし日本国内の多数をイスラム教徒が占めるようなことになれば、

 

金閣寺も清水寺も法隆寺も平等院も三十三間堂も東大寺も、

 

いずれはことごとく破壊されます。跡形もなくなります。

 

なぜなら、イスラムの教えは

 

偶像崇拝(含仏像類)を禁じている

 

からです。

 

良い悪いの問題ではなく、神の教えがある以上、それに従うのが宗教。自分がどう思い、どう感じるかは関係なく、その「教え」を忠実に守ることが重要なのです。

たとえ、そんなことはやりたくないと思っても、神の教えには黙って従うしかなく、そもそもやりたくないと思うこと自体、神への冒涜につながるのです。

なので、彼・彼女は、それ以上悩むのをやめてしまうでしょう。

 

この「思考停止」こそが「宗教の本質」であり、私が世界中のあらゆる「宗教」を否定する根拠です。

困ったときに「神様お願いします」と祈る(この場合の「神」は具体的対象物ではない)のは、内面から湧き上がる純粋な「信仰」ですが、体系立った「宗教」は「思考を奪い、何の根拠もないことを妄信させる」点において、「悪」でしかありません。

 

 

誤解しないでほしいのは、ほとんどのイスラム教徒は穏やかな人々であり、他者の文化にきちんと敬意を払うだろう、ということです。

でも、一部の過激派は、さんざん文化財を破壊し尽くした後で、

 

神の教えを実践したまで

 

と強弁するのは間違いありません。

 

常識的な穏健派がそうした行いを非難すれば、「神の教えに背く気か!」「おまえは悪魔の手先か!」と開き直るでしょう。

ワクチンに懐疑的だった人を「反ワク」呼ばわりするのと同じ構図です。

そうやって、平和を望む常識派・穏健派は口を封じられてしまうに違いありません(逆らえば処刑されるおそれもある)。

 

そして、仏像の金は溶かされ、過激派一味の富となってしまうでしょう。

ワクチン推進派を見れば明らかなように、いつだって乱暴な「極論・暴論」を唱える人ほど声が大きいのですから。

 

そうした未来の懸念まで思い描くことができないのが、「金」に取りつかれた男の「想像力の欠如」なのです。