私は何かを判断する際の基準に、できる限り「科学」を置くことにしています。
現実にはそう簡単にはいきませんが、少なくとも、そうありたいと願っています。
なぜか。
信念、信条、宗教、文化といったものは、すべて個人の「主観的概念」であり、人間が「感情の生き物」である以上、「好悪の念」が入り込むのを避けられないからです。
クジラを食べる文化もあれば、犬・猫を食べる文化もあります。豚や牛の肉はいっさい食べてはいけないという文化もあります。
これは、その文化が育まれた環境(ある食材が容易に入手できるなど)による影響が大きいのですが、こうした文化の違いは「感情的対立」を生み、互いを憎しみ合ったり、「野蛮だ」と蔑むようになります。
誰だって、自分が育った文化(価値観)こそが正しいと信じているからです。だから、異なる文化に対して拒否感や嫌悪感を持ってしまうのです。
『愛国心とは、自分が生まれたという理由で、その国が他よりも優れているという思い込みのことである。
~ジョージ・バーナード・ショー』
では、「科学」はどうでしょう?
あなたがどんなに嫌だと思っても、三角形の面積は「底辺×高さ÷2」で求められますし、必死の抵抗を試みても円周率は3.141592……のままです。
なぜなら、「科学」は「主観的概念」ではなく、万人が認めざるを得ない「客観的事実」だからです。
世界中の裁判所が、秩序維持のために「社会的通念(つまり一般常識)」を採用していますが、これは完全な間違いです。
だって、「通念」や「常識」は人それぞれであり、文化の垣根を越えて人々が移動するようになった現在、もはや「万人の共通項」ではなくなってしまったから。
ある人にとっては当たり前の行為が、別の人には非常識極まりない蛮行となり得ます。
なので、これからの人類は判断基準を、誰もが(渋々でも)受け入れざるを得ない「科学」に置くしかないのです。
それが「進化の必然」です。
この場合の「科学」とは、単なる「データ」の寄せ集めとは違います。「データ」は、部分の切り取りや恣意的解釈が可能で、やはり「主観」が大きく影響してきます。
大事なのは、「そのデータを裏付ける理論」です。
「理論」と「データ」がそろって初めて「科学」となるのです。
もちろん、「科学」も間違いを犯します。
でも、それを訂正・修正できるのも、また「科学」。
そのためには、開かれた議論が絶対必要不可欠。
一つの説があれば、誰もがそれを検証・再検証できなければいけません。
別人によるチェックができなければ、一方的に教義を押し付ける「宗教」と何ら変わりません。
もし権力者が検証を許さず、一つの説だけを「正しい」(別の説はデマ)と決め付けるなら、それは「科学の終焉」。
積み重ねてきた進化・進歩の全否定であり、人類は滅亡へと邁進することになります。