【昨日のビール】
ロング缶:本3
芋焼酎ロック:5杯
【昨日の実績】
自転車:◯
お菓子断ち:×(バタピーを大量)
今朝起きたら、妻と娘に酒臭いと言われた。それはそうだろう。こっちは二日酔い気味なのだからしょうがない。そのように説明したら「昔はそんなことなかった」と妻が少し怒った口調で言った。なのでこちらも返す刀で「そんなことはない!」と断言した。
気にしない。
気にしないぞ!
後悔もしない!
クーッ!
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最近、事あるごとにあの新型コロナウィルスとはいったい何だったのかと考えることが多くなった。人類にとって未曽有の出来事を我が人生の中で体験したのだ。このような体験は1度きりの人生で、なかなかできないものだろう。100年前にはスペイン風邪が世界的に流行し、同じような状況になったそうだ。世界恐慌や世界大戦、大地震も発生する確率的には同じくらいのレベルだと思う。
このように、世界的に見ても歴史に残るような出来事を体験したということは凄いことだと思うのだが、できれば体験したくなかった。なぜならば、得たものもあるのだが、失ったものが大きいと感じるからである。
得たものとして私個人的な意見で恐縮だが当時、外出する人々が減ったのでナントカラッシュとか、ナントカ渋滞とか、超満員とか、ごった返すと言ったような言葉がなくなった。そのため人が大勢集まって何かの行列に並んだり、予約が取れなくなったり、人の渦に巻き込まれて身動きが取れなくなったりということがなくなった。人混みが嫌いな私にとっては素晴らしい世界がやって来たと思ったのだ。
最近は「体育の日」ではなく「スポーツの日」と言うらしいが、先日の連休は天気が良かったのでどこもかしこも運動会だったようである。その日、私は自転車に乗っていろいろなところを走ったので、いくつかのの運動会を目にした。その中で気づいたのは、運動会で選手が走るトラックの周りに敷物を敷いて応援する家族がいなくなったことである。どうしているかというと、トラックの周りで家族が立ち見しているのだ。自分の子供や知り合いが出る競技の時だけ応援して、それ以外は各々周りのスペースで時間をつぶす。そのようなシステムに様変わりしているのだ。私にとっては非常に良いことだと思う。あの、応援場所の取り合いで夜明け前の早朝に並ばされて、お父さん達が死闘を繰り広げることがなくなったのである。
その他に、リモートワークもそうである。コロナ前には考えもしなかった、通勤のない仕事が可能になった。私のような面倒くさがりのサラリーマンにとっては夢のような変化である。
失ったものとして一番に挙げられるものは、やはり子供たちのイベントがなくなったことだろう。修学旅行がなくなった子供もいるだろう。運動会もなくなったり、縮小された。娘の小学校ではスキー教室がなくなった。息子は中学生だったが、かろうじて修学旅行は大丈夫だった。しかし、1年、2年生の時に開催する予定だった合唱コンクールが連続して中止となった。3年生の時は開催されたのだが、ちょうど私は出張と重なり、見ることができなかった。事実上息子が中学生の時は1度も合唱コンクールを見ることができなかった。非常に残念である。
なぜこんなことを書くかというと、今日、娘の合唱コンクールを見てきたからである。ちょうど昼休みの時間帯に娘のクラスが発表だった。コロナで変化した私のリモートワークの恩恵がここでも得られたことになる。
12時ちょうどに家を出て10分ほどで会場に着いた。ホールには1年、2年、3年の生徒全員が集まって課題曲を歌い始めるところだった。結構大きなホールの中に生徒と保護者が集まっている。コロナ禍では考えられないことであり、私は初めての体験なので少し緊張した感じで大ホール特有ののシンとした空気の中に入り込んだ。
指揮者の男子生徒が大きく手を振りあげるとピアノの伴奏と共に生徒たちの美しい声が鳴りひびいた。生の演奏と歌声は迫力をもって私の耳に届くのであった。
全校生徒による合唱が終わると、いよいよ娘たち1年生の発表の番である。見ている私の方が緊張してくる。ドキドキだ。最初は別のクラスの発表だった。娘たちの学年は2クラスしかないので、それが終わると入れ替わりとなり娘がステージに上がってきた。
緊張しているようには見えず、それよりも娘の身長が伸びており、クラスの中では背の高いグループであることに非常に驚いた。いつもクラスでは、おチビちゃんだった可愛らしい娘のイメージしかなかったので、その成長に改めて目を見張った。
発表は課題曲と自由曲の2曲があるのだが、その前にクラスで選ばれた委員の生徒が意気込みなどを話してから合唱が始まる。それを聞いて驚いた。今日、この日のために長い間練習に練習を重ねてきたのだが、課題曲と自由曲、それぞれのピアノの伴奏者がコロナに罹ってしまい欠席だというのだ。
何とも悔しいことだろう。娘は昨日まで、ことあるごとにこの日唄う曲を口ずさんでいた。○○ちゃんの唄い方はこうなんだよ、○○先生の教え方が怖いの、などとオモシロおかしく話してもくれた。ずっと練習して、とても楽しみにしていたのが分かっていたのだ。
しかし、その合唱には非常に大切な役割であるピアノの担当者が欠席なのだ。残された生徒も残念だろうが、ピアノの担当者はもっと悔やまれるだろう。忌まわしいコロナのやろうめ、と改めて思わされた瞬間だった。
そして課題曲はCDの伴奏にのせて唄うことになった。音質の良いスピーカーからホール全体に伴奏が流れると娘たちは指揮者と一緒に声をだした。聴いていると、生のピアノ演奏と遜色のない合唱である。私はスマートフォンで録画しつつ、その歌声に聞き入った。素晴らしかった。
そして次は自由曲である。指揮者の男子生徒が手を上げると、いきなり伴奏もなしに生徒たち全員が一斉に唄い始めたのだ。その一瞬、自分の全身に鳥肌が立つのがわかった。男女それぞれが持つ特有の声質が素晴らしいハーモニーとなってホールを満たした。何とアカペラで唄い始めたのである。私の胸に、いきなり込みあげてくる強い何かが、鼓動を速めた。目頭が熱くなりこぼれ出すのを堪えるのに苦労した。これを感動せずに何を感動するのか?といった具合である。
音階合わせのピアノの音を聴くこともなく、突然始めなけらばならなかった歌声は、所々で乱れることもあったが、それがなおさら胸を熱くする。みんなで息を合わせて指揮者を見つめながら心を一つにして唄う表情は、聴衆の心を打ち続けた。私は上を見上げてこぼれ出しそうな涙をやっとのことで堪えた。指揮者が拳を握り、腕の振りをグッと止めると、歌声が正確にピタッと止まり、一瞬でホールが静まり返った。
虚無の状態がホールに訪れると次の瞬間、場内は割れんばかりの拍手に包まれる。私もスマートフォンの録画をとめて拍手をした。痛くなるほど大きな音を立てて両手を打ち付けた。強い感動とはまさにこのことだと思った。鳴りやまない拍手の中、娘が笑顔になるのが見えて、やっと私の緊張が解かれた気がした。娘に感謝の気持ちが湧いてくる。
今日は、コロナの悪い面、良い面を一気に味わったような、そんな良い1日だったのだ。
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昨日の晩酌。
カツオのたたきの端切れ品が安売りだったので買うしかない。部位はどこだろうが旨いものは旨い!
合唱コンクールお疲れさまということで特製豚汁を作った。評判は上々だった。
妻が作ったささみの中華風サラダ。これは旨かった。
マカロニサラダは前日の残りだがこれも旨い。
安定した旨さのお豆腐さまは外せない。
揃いましたなアテの衆。
明日と明後日は2日連続の出社である。まだまだ忙しい日が続く。今週は秋晴れの天気が続くというのがせめてもの救いである。
ビールをこよなく愛する皆さま。
夏の終わりのハーモニーではなく、秋の初めのハーモニーに心打たれた日は
やっぱりコレ
冷たいビールで
乾杯ッ!
なのである。
ムフフフフ。







