*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。

 

二著物語:下山事件(その1)」~「二著物語:下山事件(その5)では、下山事件を扱った1970~80年代の著書の内容を分析してきた。

 

90年代の終りから今世紀にかけて、新証言を基に同事件を新たに洗い直す動きが出て来た。

 

諸永裕司『葬られた夏・追跡 下山事件』、朝日新聞社、2002

は、事件の鍵を握ると思われる人物へのインタビューに至るまでの渡米時の模様を綴ると同時に、当時存命であった事件関係者や周辺人物への会見記録を通じて、事件そのものの流れを概観した書である。

 

インタビューした主要人物は、以下のように多岐にわたる:

 

日本

・平塚柾緒:元「アサヒ芸能」記者。占領下、GHQ(連合軍総司令部)の中でチャールズ・ウィロビーが長となったG2(参謀二部)の配下で様々な活動を行ったキャノン機関の長であるジャック・Y・キャノン中佐(当時)にインタビュー。

・大原茂夫:警視庁捜査二課勤務(事件当時、以下、断りなき限り同じ

・坂本智元:警視庁刑事部長

・鈴木市蔵:国鉄労組副委員長

・児玉直三:国鉄民主化同盟(民同)活動家

・室伏憲吾:民同リーダー

・鑓水徹:内外タイムス、読売新聞の記者を歴任。下山総裁殺害を告白したH.O.なる人物の日記を入手した人物として矢田書に紹介されている。

・堀木鎌三(衆議院議員)長女:堀木は生前「鉄道弘済会の資金で下山事件の下手人の逃走を幇助した」と知人に告白したとされる。

米国

・延禎:キャノン機関の一員

・ジョージ・ガーゲット:CIC北海道支部(通称ガーゲット機関)長

 

諸永が最後にインタビューしたのが、キャノン機関のナンバー2とされるビクター・松井である。

 

松井へのインタビューに執念を燃やしたのには理由がある。畠山清行という作家がキャノン機関の下請け工作員であった韓道峰と会見した時の記録の中に、事件があった夜に韓が松井から連絡を受けた折の様子を記した以下のような記述があったからである:

 

・・・・・松井は、

「万事かたづいた、とキャノンに伝えてほしい」

と言った。キャノンはその夜は留守だった。韓は、横浜の自宅へ帰ったものと思っていたから、

《明日になれば帰るのに、自分で言ったらよさそうなものを》と思ったので、

「どこかへ行くのか」

と聞くと、

「神戸までドライブだ。少々腐ったことがあってね。じゃあ頼むよ」

と電話を切ったのである。

・・・・・<中略>・・・・・

 松井の伝言を聞くと、キャノンはひどく慌ててすぐ方々へ電話をかけていた。

「しまった。まずいことをやってくれた」

 などといっているのを韓は聞いている。

・・・・・<中略>・・・・・

キャノンには(下山を/筆者注)殺す気はなかった。生かして脅すだけで意のままに動かせれば、それが一番だ、と考えていたのではないかと思う。

(諸永、326-27頁)

 

このような生々しい記録を突きつけられても、現役時代諜報活動に携わっていた人間だけに、松井はしたたかに話題をはぐらかしたり、記憶の曖昧さを言い出したりしていたが、ただ一度だけ一瞬だが動揺した場面があったという。それは、上述の畠山による韓道峰へのインタビューが録音されていたことを伝えた時であった(329頁:因みに、「録音されていた」というのは半分正しく、半分嘘である。畠山自身は録音したようだが、保存していた記録の類は、畠山当人が死亡した時に全て破棄されたそうで、諸永自身は入手していない)。当書の中で一番劇的な場面である。

 

これ以外に諸永書で注目すべきは、アメリカ側の公文書にも言及していることで、バージニア州のマッカーサー記念館に所蔵されているG2関連史料の中から事件関連文書の幾つかについて紹介している。それに拠ると、下山総裁が行方不明となった49年7月5日午後4時44分付のSpot Intelligence Reportには、早々と「誘拐された可能性」が指摘されている(299頁)。そして、二日後の7月7日の文書の一つにはMurder of Shimoyamaとの表題が付けられ、複数犯による殺人であるとほぼ断定している(300頁)。翌月8月3日には、時の首相吉田茂がウィロビーに情報提供を求めてきたことが記されているが、諸永に拠れば、8月になってから事件関係の報告が激減していると言う。

 

諸永書の問題点・方向性を持った調査の功罪

諸永は、自身が行なったインタビューが一つの予断・方向性を持ったものだったことを明らかにしている。ガーゲットとのインタビューの模様を記した箇所で「何より僕が聞きたかったのは反共工作についてだった。なぜなら、その延長線上に下山事件がある、と考えていたからだ」(195頁)と明白に述べている。

 

ここに大きな問題がなかったであろうか?当事者から何かを聞き出そうとする際に、一つの方向性を以って質問を重ねていく必要はある。だが一方で、予断を持ち、その予断が強過ぎると、都合の良い情報のみを取捨選択してしまい、極端な推論に陥ってしまうことが往々にしてあるのではなかろうか?

 

著者(諸永)の以下の陰謀論めいた記述を読むと、その感を深くせざるを得ない:

 

 “犯行グループ”の狙いは自他殺不明に見せかけることだったのではないか。

 下山の替え玉を放って多くの人々の目に触れさせ、自殺を匂わせる証言が積み重なるように仕組む一方、ニセの「秘密指令」などにより共産党犯行説も演出した。自殺説は直前になって<警視庁で>発表が見送られ、他殺説を追っていた捜査二課も事実上、骨抜きにされる。捜査本部は事件から五ヶ月で解散した。警察幹部は正式に認めていないが、GHQ(G2)から圧力がかかった形跡もみてとれる。

 謀略は、引き受け手のいない国鉄総裁の椅子に下山を座らせたところから始まっていたのかもしれない。自殺、他殺のいずれにしても、下山の死は、左派を追い落とすため見事なまでに利用された。歴史がねじ曲げられたことは間違いない。僕はそんなふうに考えていた。(323頁)

 

その予断のためであろうか。遺体や着衣に染み付いていた油、そして“血の道”などの物証をめぐる問題に関しては、矢田書を始めとする他殺説が唱えていたことをほぼ鵜呑みにして、参考文献リストに含まれている佐藤書の詳細な分析には一顧だにしていない。これでは、「『自分はこれだけ多くの文献を参考にしたぞ』と誇示するためだけにリストに入れたに過ぎず、実際は読んでいなかったのではないか?」と勘繰らざるを得ない。

 

<「その7」に続く>