*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。

 

前々回二著物語:下山事件(その3)

前回二著物語:下山事件(その4)

では、自殺説を代表する佐藤一『下山事件全研究』を俎上に載せた。

 

今回取り上げるのは、自殺説を明確に唱えてはいないものの、事実上自殺説を打ち出している書である。

 

錫谷(すずたに)徹『死の法医学・下山事件再考』、北海道大学図書刊行会、1983

の始めから三分の二ぐらいは、法医学上の死の定義や、事故・自殺・事件に見られる様々な死の形態・様態についての解説をしたもので、残りを下山事件の分析に充てている。

 

新機軸の自殺説創傷部の生活反応の有無をめぐるこれまでの論争について、列車事故のような即死事案の場合には生活反応が見られない(59頁)として、生活反応の有無を根拠に自殺か他殺かを判断する無意味と断ずる。その上で、死体検案書から窺える遺体の損傷状態を検討した上で、(1)肋骨が皮膚を破って突出している、(2)心臓が破裂してその位置が相当動いている、(3)内臓の破裂状況が著しい、といった点に注目して、総裁が列車に接触した時には立っていたとしか考えられないと結論付けている。これは、死後に線路上に横たえられたとする他殺説とも、鉄道自殺では線路上に横たわる場合が多い(佐藤、250頁)とする自殺説とも、一線を画する新説である。

 

錫谷自身は自殺か他殺かについての議論には立ち入っていないが、上述のように立位で機関車に衝突したと断じたことで、事実上自殺説に与した内容となっている。

 

錫谷説への疑問

だが、錫谷説には幾つか難点がある。筆者(山本)は法医学に関してはずぶの素人だが、以下のような疑点を挙げることができる。

 

(1)列車と衝突時の音がなかった:下山総裁をひいた869貨物列車の乗務員は「レールに敷いてあるバラスがバチバチと機関車の底板に当たる音」(矢田書、13頁)を聴いたと報告している。つまり、異常音が最初に聴こえてきたのは機関車の下部からである。仮に、下山総裁が立った状態で機関車と衝突したならば、そのような音でなく、まず機関車の正面から異質なもっと大きな音が聴こえたのではなかろうか?

 

(2)手足の切断状況を無視している:死体検案書に記されていて、錫谷書にも図示されている(226頁、及び佐藤書209頁、古畑教授作成)通り、両脚の先端と右腕の付根の部分がすっぱりと切断されている。このような切断態様は予め線路の上に横たわっていた場合に起きるものであり、立ったまま列車に衝突されて、その後列車に下に引き込まれた場合には起き難いと思われる。

(3)胴体・内臓の発見位置を無視している:錫谷説の目玉とも言うべき肋骨や内臓の破損状態については、このような損傷が衝突した刹那、瞬時に起きたと錫谷は考えているようである。だが、矢田書が明らかにした現場での遺体の散乱状況を考えれば、それ以外の可能性も大きいと言わざるを得ない。矢田書が掲げる図(矢田、145頁)に拠れば、内臓の一部である腸が発見されたのは、右足首が残っていた最初の轢断地点から64メートル離れた地点、胴体に至っては87メートル離れた場所となっている。つまり、それだけ長い距離を列車の下で揉まれたりして衝撃が加えられたことになる。錫谷自身も、一般論として「人体が引きずられ転がされて場所を変えながらつぎつぎと何回も車輪に轢過されると、多くの部分で轢断し、人体はバラバラの破片になって数百メートルの長さにわたって線路上に分散する」(189頁)と言っているのである。

最後の(3)に関して錫谷は「着衣が引っかかりあるいは身体があおられて少々飛び上ったときは、同時に列車の進行方向と同じ方向に身体も運動しているから、たとえ車両の下端の突起物に身体が衝突しても、その衝突の力はいちじるしく小さい」(247頁)と簡単に片付けているが、事はそんなに単純ではない。矢田書には「死体は二回ひかれた」(144頁)とあり、87メートルの距離を移動する間に、胴体は最初の轢断に次ぐ大きな衝撃を受けていたのである。その激しさは、矢田書が掲げる遺体の散乱状況を示す図からも窺える。胴体が線路の内側で発見されているのは当然であろうが、車輪で切断されたとしか考えられない左足首や右腕も線路内にあったのである。最初の轢断から如何様に遺体が機関車・列車の下で運ばれ、転がされ、損傷を受けたのか、想像するのが困難なほどの複雑な動きをしたと思われる。

 

錫谷の分析は、遺体の損壊状態にばかり目を向けて、関係者が証言する衝突時の状況や現場での遺体の散乱状態といった幅広いコンテクストを無視したもので、欠陥があると言わざるを得ない。

 

錫谷書の良い点としては、当時の法医学の実情について赤裸々に語っていることが挙げられる。事件当時の鑑定結果は「当時のわが国の、あるいは世界の、法医学未発達のせいであったというのが正しいかもしれない」(262頁)と述べているし、更に、当時の医学界の風潮として、対立する学説同士のせめぎ合いが往々に感情的なものとなり、学会の場で「足を踏み鳴らし、口々に雑言を吐き散らし、研究発表の妨害をした」(268頁)こともあったことも指摘している。錫谷は、このような風潮が下山事件の法医学鑑定にも影響したことを示唆している。

 

<暫時中断した後、「その6」に続く>