*この「二著物語」シリーズの趣旨については、プロフィールを参照して下さい。

 

前回二著物語:下山事件(その3)では、自殺説の代表例といえる佐藤一『下山事件全研究』を取り上げ、その内容の一部を概説した。今回は、概説を続けると共に、その内容の問題点を若干指摘する。

 

遺体の列車運搬説への反証他殺説の中で、①下山総裁を轢断した869貨物列車の田端出発が何等かの工作で遅らされ、②下山総裁の遺体は進駐軍の列車によって現場まで運ばれた、という松本清張らの説に対しては、以下の反論を行なっている:

①担当の機関士が起こされるのが予定より三十分遅く、更に、機関車の罐の蒸気圧が下がっていて、そのために発車が遅れたとされている。だが、当の貨物列車の出発の遅れは予定よりも八分に過ぎず、轢断現場にいたる頃には、それを二分に縮めていた。ここまで容易に遅れを短縮できるような妨害工作だったとしたら、御粗末極まりない(466-67頁)。また、もしも発車を確実に遅らせようとするならば、機関車から貨車に繋がれているエアホースのどこかに穴を開けるという単純な方法があったが、それはなされていなかった(472-73頁)。

②松本清張が「下山総裁の遺体を運んだ貨物列車」とした1201列車は、実は日本を占領していた連合軍専用として上野~札幌間を走る旅客列車であり、ヤンキー号[Yankee Limited]という愛称で呼ばれていた(474-75頁)。当日乗車していた日本人乗務員の証言に拠れば、松本清張が推理したような田端駅で下山総裁の遺体を乗せるような余裕は時間的にも運行上も不可能であるし、轢断現場で減速した形跡もない(476-77頁)。

 

“他殺説”警部異動の理由警視庁捜査二課二係長の吉武辰雄の上野署への転勤については、矢田書、そして後述する他殺説を主張する書が一様に、上層部が捜査を打ち切って自殺説で纏めようとした企みの一環であったと示唆している。だが、著者(佐藤)が当の吉武に直接インタビューしてみたところ、当人は、それを真っ向から否定した上に、「[遺体の着衣に付着していた]油を追ってみたって、犯罪のニオイはまったくしてこないんですからね」(579頁)と語っていたし、上司である坂本刑事部長も「下山事件とはまったく別」(580頁)と言っている。それでは、転勤の理由は何であったかといえば、両名共に「別の事件」と言って口を濁していたが、当時政治問題ともなった五井産業事件という汚職事件の捜査の過程で警察の内部情報が漏洩していた形跡があり、その渦中の人物として吉武係長に疑惑が向けられていたがために、飛ばされたというのが真相だったと言う(580-81頁)。

 

自殺の誘因著者(佐藤)は、下山総裁が「初老期うつ憂症」であるとの見解を示し、その根拠として、①予定などを几帳面に記していた総裁の手帳が六月二十八日から空白となっている(597頁)、②総裁が国鉄労組との交渉及び国鉄本社などでの会合の場面で事件の三日前の七月二日あたりから異様な行動を見せ続けていたこと(594-97頁)を挙げる。その上で、このような総裁周囲の人間が実見した総裁の異常行動が、当時米子大学学長であった下田光造が毎日新聞に送った「下山総裁は初老期うつ憂症」との見立てと符合する点が多いとしている。具体的には、この症状が発症する年齢が四十、五十代であり、下山総裁のような責任感が強い「執着性格」の人に発症し易いとしている(602-05頁)。

 

他殺説が唱える謀殺の動機の弱さ国鉄の大規模な人員整理に伴うストなどの騒擾を未然に抑えるためにGHQ傘下の謀略機関が仕組んだという筋書きには無理があると佐藤は主張する。そのようなことをしなくても、占領軍による命令を出せば、予想されるような騒擾行為は押さえ込むことが可能であり、現に下山事件が起きる直前まで、そのような命令は頻繁に出されていたことを指摘している(533頁)。

 

佐藤書の弱点

上記の諸点、取り分け現場及び付近に関連する物証に関して、佐藤書は磐石とも言うべき分析・論理を展開している。だが、以下のような理由で、それでも決定打とはなっていないと筆者(山本)は感じている。

生体轢断の可能性即ち死後轢断の否定ではない生活反応をめぐる論争について佐藤書の分析は「生体轢断でも鑑定結果のような生活反応のない創傷は生じ得る」ことを論証したに過ぎず、死後轢断であったことを否定するには至っていない。

土地勘があったことは決定打ではない生前の総裁が土地勘があった場所は五反野近辺に限定されていたわけではなく、これを以って総裁が自殺したと断ずるのには無理がある。

目撃証人の証言の再検証が為されていない最大の弱点とも言うべきは、五反野で下山総裁を見たと言う証人による証言の再検証が全くなされていない点である。矢田が事件から十五年後に五反野での目撃者に会ってインタビューしたことに触れて佐藤は「一五年余を経れば、その記憶が少しずつ変容してくるのは当然のこと」(588頁)で「一五年後の話が、一五年前の証言より正しいという保証はどこにもない」(589頁)と断ずる。その上で佐藤は「これら『目撃証人』といわれる人たちから積極的に話を聞かなかったのは、この記憶の変化についての考慮があったからである」と説明する(589頁)。しかし、矢田書が触れている目撃証人の何人かは、矢田書で明らかにされている通り、当時新聞などに書かれた証言が自らが語ったものとはかけ離れているとか、捜査員が強引に「こうだっただろう」と説得するようにしたとの証言をしている。つまりは、当時メディアで報道された自身の証言内容が実際と異なると言っていたのであり、単なる記憶の変遷とは言えない性質のものなのである。

 

<「その5」に続く>