前回の続き。
高橋義夫『浄瑠璃坂の仇討ち』、文藝春秋、1998年
について、
「読者は、主人公の生駒尚平には実在のモデルがいたのではないかと考えたくなるであろう・・・」と述べたところで終わった。以下、それに続ける;
そういった背景事情を知るために役に立つのが、この事件の背景・経過・余波について分かり易く解説した
竹田真砂子『浄瑠璃坂の討入り』、集英社、一九九九年
である。
事件そのものも然ることながら、この事件と赤穂浪士の討入りとが如何に関連し、その後江戸時代から現代に至るまで、何故に後者が大々的に喧伝されてきたのに較べ、前者が殆ど顧みられなくなったのかについてまで分かり易く分析したもので、巻末に上げられた専門書のリストを見ても分かるように、あまり研究対象となっていなかったこの事件について実に簡潔に説明している好著である。
文中、著者の分析が多くの推論・推断によるものである点が少し気になったが、史料が余りないことに鑑みれば止むを得ないことであり、そういった点については、これからの更なる研究成果を待つべきであろう。
この竹田著の内容に照らして高橋氏の小説を読み返してみると、実に面白い。
まず、実際に討入りに参加した面々の実名が記されているが、その中に生駒尚平なる名前は見当たらない。ただ、討入り参加者の中に「生田弥左衛門」なる人物がいて、その人物には「尚之」という名の叔父がいたことが、収録してある系図に記されている(151頁)。高橋氏はこのあたりから主人公を創作したのであろうか?
次に、浄瑠璃坂の討入りには、忠昌が死去した際に幕府の殉死禁止令を破って殉死した杉浦右衛門兵衛という家臣がいたという今一つの事件が密接に関わっているが、前述の原田氏の書は冒頭で事件の前段として軽く触れているだけである。また、高橋氏の小説では、主人公の許婚者の蓮子がその娘で、通っていた道場の主が弟であったという設定になっていて、この蓮子が討入りの際に大きな役割を果すことになるが、飽くまで殉死事件は脇筋の扱いである。
これに対して、竹田氏は討入りには殉死事件が密接に関わっていると分析する。家臣同士の諍いは飽くまで藩内の問題であるが、殉死の禁令は幕府が出したものである。その結果、前者に対して幕府からは何の咎めもなかったが、後者に対しては奥平藩の所領が宇都宮十一万石から山形九万石に移封という処分が下されている。
その折に、奥平藩では藩士のリストラを行なうこととなり、その際にクビにされたのが刃傷沙汰の当事者であったが、藩主の選り好みで隼人側に有利に首切り対象者が選ばれ、それ故に内蔵允側の家臣が不公平感を抱いたのが討入りの発端・・・というのが竹田氏の推論である。
忠臣蔵を好む日本人全般には、原田氏の「義挙」論に好感を抱き、高橋氏の小説もすんなり義臣・忠臣物語として読むことができようが、忠臣蔵も含めた仇討ちの実態を解き明かした竹田書も一読に値しよう。