<*当シリーズの趣旨についてはプロフィールを参照してください>
前回は鈴木輝一郎『長篠の四人』
を俎上に乗せ始めた。今回は、その続き。
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長篠合戦自体についての鈴木の記述に対しては、以下の書が批判の叩き台となる:
藤本正行『長篠の戦い:信長の勝因・勝頼の敗因』、洋泉社、2010(平成21)年
長篠合戦の通説への反論の総括とも言うべき当書の主要な論点を箇条書きにしてみると、以下のようになる:
・三千人が三隊に分かれて交替でする一斉射撃など、当時の火縄銃の性質や扱い方に鑑みれば不可能。(60-61頁)
・当時の武者が乗っていた馬は小型でしかも気性の荒いものが多く、集団的運用に不向き。(66-67頁)
・戦国大名の軍勢は少数の騎馬武者が多数の歩兵を率いるという構成になっており、騎馬隊の集団突撃など有り得ない。(70頁)
・武田側が柵を構えている織田・徳川連合軍に突撃したのは、後者の別働隊が鳶ノ巣山を襲撃したことによって後方を脅かされたがため。(117-18頁)
長篠合戦の帰趨を決めた重要な要因の一つが一番最後であると藤本は主張する。柵を構えた織田・徳川方に武田軍を突撃させるために別働隊に鳶ノ巣山を襲わせたというのであり、言うなれば、川中島合戦で武田信玄が上杉謙信の軍勢を誘い出して殲滅しようとするために実施したとされる「啄木鳥の戦法」のようなものである(蛇足であるが、この川中島合戦の通説に対しても疑義が呈されている)。
公平を期して述べておくが、追記の中で鈴木は参考にした文献としてこの書にも言及している。だが、
近年「『武田騎馬軍団』なるものは存在しなかった」という説が定着しているが、本書では「平山優氏の『検証 長篠合戦』
(吉川弘文館)による「西日本と東日本の戦術差」説を採った。(311頁)
と述べて、この「武田騎馬軍団」不存在説を採るこの書とは対立する見解となっている。小説の中でもこの見解を反映させて、
西国は騎馬武者も合戦となれば下馬して突入するのが通例である。東国の場合、騎馬武者が馬に乗ったまま突入することも
ある。槍足軽たちの槍衾がすこしでも乱れ、その隙間から突入できさえすれば、騎馬武者は圧倒的な強みをみせた。騎馬武者
は徒武者(歩兵)にくらべて機動力が格段に違い、しかも軍馬は気性が荒く、徒武者たちをためらわず蹴り殺すのだ。(212頁)
と述べている。
ここで鈴木が典拠としている著作が、
平山優『検証・長篠合戦』、吉川弘文館、2014(平成26)年
である。
確かに平山はこの書の中で「戦国合戦で、騎馬衆による敵陣への突撃(乗込・乗崩)を仕掛けた事例は数多く認められ・・・」(平山、139頁)としているが、それに続いて「それは敵軍が浮き足立ち、備えが乱れたことを確認して実施されるのが一般的であった」と補足しているのであり、通説では合戦の当書から騎馬突撃を行なったとされる長篠の武田軍には当てはまらない。
更に平山自身は、長篠での武田軍の戦法を推測して「当然、(馬防の)柵を破る工夫を様々な形で試みたのではないかと考えられる」(平山、184頁)と述べており、騎馬での突撃がなされたとは言っていない。
<次回に続く>