<*当シリーズの趣旨についてはプロフィールを参照してください。>

 

長篠合戦を題材とした複数の著作についての論評の続き。主に、鈴木輝一郎『長篠の四人』

を俎上に乗せている。

 

恐らく、鈴木はどうしても武田による騎馬突撃の場面を描きたかったのであろう。それ故に、歴史考証上随分と無理な記述がある。その最たるものが以下の件である:

 

  (武田信廉隊二千五百の内)全体の三分の二を騎馬武者が占めている。・・・「先刻の山県

  昌景組の一手で脱走した馬を流用しているのでございましょう」(252頁)

 

武田軍の三分の二が騎馬武者とはいくらなんでも有り得ない。武田の場合、「軍役の状況から見ると、武田氏の場合、せいぜい10パーセント弱であって、この数値は、上杉氏や小田原の北条氏よりも、むしろ低いくらいである」(鈴木眞哉『謎説き日本合戦史・日本人はどう戦ってきたか』講談社現代新書、2001年、134頁)との説が出されているし、ヨーロッパで、歩兵が威力を増してくるナポレオン戦争以前の比較的騎馬兵力が多かった旧体制の軍であっても、その割合は軍全体の5分の1から6分の1だったのである(Stephen T. Ross, From Flintlock to Rifle: Infantry Tactics, 1740-1866, [London: Frank Cass & Co.; 1996], p. 29)。

 

そして、織田鉄砲隊の戦いぶりについても現実離れした記述が見られる:

 

・火縄銃は連射がきかないといっても、操作に慣れれば指折り二十をかぞえる間に弾薬の装填から発砲までできるのだ。一挺あたり一千発の弾薬があれば、まったく休みや銃身の掃除をしないと計算しても一挺あたり三刻(約六時間)、ふつうは三挺一組で行動するのでこの三倍、すなわち九刻(約十八時間)ものあいだ、休みなく発砲し続けることができてしまう。(200頁)

・織田・徳川連合鉄砲隊、第一組三百余挺の鉄砲が、轟音と共に初弾を一斉に発砲した。・・・織田・徳川鉄砲隊の第二組三百余挺の鉄砲が発砲された。轟音で地響きがする。(209頁)

・一度に放たれる弾丸が三百発(216頁)

 

ここら辺は、完璧に通説に沿った話しの展開となっているが、上記で下線を引いた部分が全く理解できない。これが「・・・計算すれば」だったならば一応意味は通っているのだが、何を言わんとしているのであろう?

 

推測だが、鈴木自身も「休みや銃身の掃除を全くしないで撃ち続ける」のは無理であると悟っていたのであろうが、それを言ってしまえば自身の話が成り立たなくなるので、強引にこのような表現にして誤魔化したのではなかろうか?

 

藤本正行は

の中で、当時の火縄銃の火縄は消えるのがしばしであったこと、発射した後の残滓が銃口内に溜まるので定期的に掃除しなければならないことを挙げて、このような一斉での連続発射など不可能であったことを詳述している(藤本、57-60頁)。更に付け加えれば、長時間にわたる連射をすれば、銃身を折に触れて冷やす必要があり、それに要する時間も加味しなければならないであろう。こういったことを全く考慮していない記述である。

 

唯一、鈴木書の中で史家が首肯し得るのは、以下の記述の後半部分かもしれない:

 

・織田は鉄砲の名手が揃い、弾薬についても一挺あたり一千発(200頁)

 

鉄砲の名手が揃っていたかは疑問だが、織田・徳川軍の鉄砲隊が潤沢な弾丸・火薬を有していたことについては、平山書

が論じている。

 

平山は、武田も鉄砲の威力を決して軽視しておらず、多数使用していたが、「長篠合戦での両軍の明暗は、やはり相互の装備量(物量)の差、それは鉄砲・玉薬・弾丸の生産、流通経路へのアクセス度の差に由来すると結論づけることが出来よう」としている(平山、135頁)。

 

今後も長篠合戦については数々の論稿が出され、その成果に基いた小説も書かれるであろう。歴史小説は必ずしも史実に忠実に即して書かれる必要はないが、余りに歴史考証や常識感覚から外れた話しの展開になると、読者も呆れてしまうであろう