Niccolo Machiavelli

現実主義者が誤りを冒すのは、相手も現実を直視すれば自分と同じように考えるだろうから、馬鹿な真似はしないにちがいない、と判断した時である。



自分の常識がすべてに通用すると思う瞬間がわずかでもあると、

いつも足元をすくわれる。


そんなことは当たり前のことかもしれないけど・・・



いろんな世界で育った人、

いろんな環境で成長してきた人がいる。



そのことは大学2年生にもなって、まだまだ認識しきれてないのかもしれない。

自分のセオリーはふと崩され、自分の精神バランスや、実際の行動にどうしようもない影響を与えてしまう。



でもいまは、それが自分に必要な時間なのかもしれないな。





そうやっていまは多くの人の、いろんなバックグラウンドに触れてみたい。

なによりそれが楽しいし、

自分にとってその一瞬一瞬が成長、

幸せなんだな。



自分の常識とは何か。

自分が今まで触れてきた一部のものでしかない。

自分の生きてきた世界なんて、本当にわずかなものにすぎない。


まさに井の中の蛙、大海を知らず。




でもね、荘子のこの諺、実は続きがある。

井の中の蛙、大海を知らず、去れど大空の深さを知る。


自分の考えが狭く、まだまだ浅はかなだけ、その分井戸の中から見える空のように、

世の中がいかに深いものなのかは推し量ることができるんだ。




確かに私の今までの人生で歩んだ世界は、狭い。

今こうして考え巡らせているものも、有限。


けど、自分の周りの人に、自分の常識や世界がまだまだ通用しないこと、

その人がまだまだ多くの世界を持っていること、

誰よりも深さを持っていることに、

私は魅せられる。



みんな誰もが、自分の深さを決めつけてしまったり、

自分ではどうしてもそのポテンシャルを認識することはできないよね。

けど、その代りに、周りの人からすればこれ以上ないほど輝き眩しいんだ。



ああ、

やっぱり人は深く、暗く、底知れず、

そして、希望に満ち、明るく、無限大。




最近、自分が当たり前を、あたりまえだと感じられなくなっていることが、

病んでいるようで、でもとても素敵なことのようで、

こうしてまた、井の中の蛙、大空の深さを知るところだなあ。















Nelson Goodman

唯一の世界を多と解することができるし、多くの世界を一と解することもできる。一か多かは解し方によるのである。



彼女は何を思うのだろう。


周りの環境が自分を整えてくれる。

足りないものを補ってくれる。

必要な物を用意してくれる。

自らに賛同してくれる。


でもそれは、自分にとっては何も整っていないのかもしれない。

どこか空虚。

自分は、と卑下してしまう。

面倒だと感じてしまう。

一人が楽で何より。



人とのコミュニケーションが億劫。

メールがたくさん来ても返信に戸惑う。

時間がかかる。

返さなくてもよしとしてしまう。



これは全部私の勝手な憶測。

けど、決してすべてが嘘ではないはず。



自分が他人に対して面倒と感じてしまう空気が周りに伝染して、

学部の同性から取っつき難いと感じられてしまうことも。

異性からは、本当の自分を見られず外見で判断されてしまう。


だから、余計にコミュニケーションが面倒。

だから、一人が楽。

だから、楽しかった実家・地元が楽。



どんなに億劫でどんなに面倒で、どんなに不安でも

明日はやってくる。

だから、一人の時間を作ることで自分と向き合いながら自分の時間を有意義にしようとしている。




大抵の同性とは、うわべで話していこうとしてしまう。

異性は、まとめて異性でしかない。

ゆえに二人っきりでは遊ばない。



彼女は、きっとどうしていいかわからないんじゃなかろうか。

みんなが気遣ってくれる。

それが何で私に対してなの?という疑問。


周りはどんどん馴染めていない彼女に優しさを見せる。

連絡をこまめに入れたり、意見を伺ったり・・・

でも私はそれは違うと思う。

みんなは優しすぎる。

優しさが仇となって彼女を苦しめてはいないのではないだろうか。



ゆえに私ははっきり意見したい。

いまの彼女のスタンスは間違っていると。



だからって私が何か劇的に変えてあげることはできやしないのかもしれない。

でも、私の思いはこうだ。

言いたいことははっきり言う。たとえどんな生い立ちだろうと、外見だろうと、環境だろうと。

そんなものに縛られず、違ったらはっきりNoを。

なんでも面倒の一言で片づけて行けるほど、世の中は甘くはない。



私に対して、「何あいつ」と感じているのかもしれないし、面倒な異性で終わりなのかもしれない。

だけど、私は都合のいい男ではない。

なんでも優しさという勘違いで合わせていくような男でもない。

私は、私。



そんな私は、「それならわかった。そう思うなら好きにすればいい。機会があれば話すだろうから。」といった。

けど、思いはいつもコミュニケーションをとりたいの一言に尽きる。


なぜなら、私も面倒さや、周りとのコミュニケーションに悩まされていた人間だし、

いまでも同じ思いを持つ人との関わりの中で、新たな自分を発見できる。

なによりも、支えてもらうことができるから。



私は思う。

彼女は、このままでは、いつの日か本当に支えが必要な時に

本当につらい思いをひとりで耐えなければならなくなることになるんじゃないか、と。



そんなに重たい気持ちで話さなくたっていい。

くだらない話だっていい。

すこしずつでいい。


コミュニケーションを待っている人がここにいる。

あとは、あなた次第。

私にも多くの欠点があるし、彼女にも多くの欠点がある。

話していくことで、なにか気持ちが楽になったり、補えたら、それでいい。


いつでも待っている。







以上。


なんだか、思慮深い話だね。

実話を基にした、小説でした。

どこかとても感じることの多いものだったので紹介しました。










 

 




Carl Hilty

幸運。それは君の前に立ちはだかる獅子である。大抵の人はそれを見て引き返してしまう。



今日は、一学年上の尊敬する先輩とランチを一緒して、いろいろ私にヒントを与えてくれました。



自分がいま、ツンツンしていたり自信過剰な時期なんだろうという、ことを再認識できた。

いままで高校生のころから自分のスタンスについて悩んできたことの答えが、やはりすごく身近に転がっているということ。




自分よりも尊敬できる部分をほんとに素直に聞き入れる姿勢。


自分を誇る大切さとともに、自分を誇大広告する恥ずかしさの両方のバランスを、よりいっそう意識してみたいと感じた。





高校時代、自分が今までかつて部活などでやらなかったサッカーに夢中になったときの自分。


圧倒的なセンス、レベルの友人に、いつも素直にアドバイスもらって、真似して、どうにか自分の足りないものを追い求める姿勢。


自分がサッカーにおいてあまりに底辺ということを、ものすごく真摯に受け止めてそこから吸収しようとする姿勢。


その結果、ものすごく成長できた自分。上達した自分。大会での優勝という結果も出せた自分。




あの頃できたように、自分はいかにものを知らず上には上に人がいるということを受け止め、他人を敬い、自ら必死に成長して、なによりそれを楽しんでいく態度。



これをもっと今の自分にあてはめなきゃいけないね。




「人に慕われる人物、人が付いてくる人物」とは、そんな無知の知をしっかり受け止められる人物であることには間違いない。


誰かを今の段階で決めつけることもやめよう。

今後の自分にとっても大切な人になるかもしれない。





自分ができるという自信に埋もれているんだということを、理解しているつもりだったけど、理解しても実行できなければいずれ人の上に立つときに困るのは自分。


いつからでも人は変わっていく。

もっと変わろう。




みなさんも、年齢が近くて、かつ尊敬できる人物を見つけていますか?




私には、今一人、二人とそんな人物に出会えていることが誇りです。

それが幸運ということなのでしょう。