一斉休校報道で感じる偏りと違和感 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

朝の情報番組を観ても、夜、報道ステーションやニュース23を

観ても、トップニュースはほぼコロナ一色である。

 

感染を防ぐための一斉休校措置については賛否意見がわかれている。

まあ、様々な意見があるのは当然だと思うので、それについては異論はない

のだが、報道を観ているとどうしても拭えない違和感がどの局にも。

 

「学校で勉強できなかったり、友達と会えないことで生まれる子供たちの

ストレスが心配」

という取り上げ方だ。

 

学校にゆけないストレス!?

学校にゆかなきゃいけないストレスからの解放ではないのか??

 

大事な時期なので誤解のないよう、先に断わっておく。

亡くなられた方や苦しんでいる方もいるわけだから、新型コロナウイルスを

正当化するつもりはいうまでもなく微塵もない。

コロナ騒動は既にもう起こってしまっているという前提で、その結果としての

休校およびその報道の在り方を語るものである。

 

テレビで子供へのインタビューを観ていると、どの映像にでてくる子供も

「学校にゆけなくて寂しい」

「友達と会えなくて悲しい」

というような言葉をいっている。

 

そう答えている子たちは決して嘘をついているわけでもなく、本音をいって

いるだけだろう。

 

だが……

それ以外のことを答えている子供は本当にひとりもいないだろうか。

インタビューを観ている限り、まだひとりもいない。

 

大人の視点からみれば、病気やウイルスの恐ろしさをそれなりに理解しているし、

またそのへんにおいて、許される発言・表現と、許されない発言・表現もしっかり

わきまえて言葉を発したり動いたりすることができる。

 

でも自分がまだ子供だったときの感覚を思いだしてもらいたい。

 

病気にはなりたくないとは思っていたが、ウイルスとか感染だとかそこまでの

知識や不安はなかった。

インフルエンザが流行り学級閉鎖になったときは、みな学校が休みになったと

喜んだものだ。

先生が「あとひとり誰か休んだら、学級閉鎖になります」といった日には

オレも他のクラスメートも心の中では「誰か休んでくれ!」と沸いた。

 

不謹慎といわれれば不謹慎。

でも子供ってそういうものだし、事実そうだった。オレも他も。

 

もし、今オレがまだ学校に通っている立場で休校の知らせを聞いたらどう思うだろうか。

 

それなりに楽しんでいた高校生時代なら残念だと思っていたかもしれない。

でも、小学校時代や、それこそ地味なグループに属して目立つグループをうっとおしい

という目で見ていた暗黒の中学生時代だったら、この休校を心から喜んでいたと思う。

もうしばらく学校にいかないでいいと。

クラスの中でいきがっている派手な奴らと顔を合わせて不快になることもないと。

 

インタビューで子供たちが「学校にゆきたい」といっているのを見ると、オレとしては

「この子たち可哀想だなあ」と思うよりも、「学校にゆきたい子供ってこんないるのか」と

驚いている。

今の子供の多数は恵まれているんだなあと。

 

温度差を感じたのは、もう学校にたいする想いのスタート地点が違うのである。

 

学校にたいして勉強は嫌いだったけど、友達と会うのが楽しかったという人も多いと思う。

 

つまらない小学生、中学生時代だったけど、オレにも友達はいた。

でも限られた少数。

だから会えなくともそれほどのダメージはなかった。

 

その友達とは遊んだり話したりしたかったけれど、学校にゆきたくないという想いの

ほうがはるかに強すぎて、学校にゆかなくて済むのであれば、友達と会えなくても

いいと思っていた。

 

思うのだけれど、今でもそんなオレみたいな感覚で学校にゆかないですむことに

安心している子供もきっといると感じるのだ。少数派かもしれないけれど。

 

でも、世の中が「コロナに負けるな」という雰囲気一色になっているため、

メディアも学校にゆきたい子供たちメインの声を取材するようになっている気が

してならない。

 

コロナを歓迎しているとかではなく、純粋な結果論として学校にゆかないで

すむことになった子供たちもいると思うのに、そういう存在や声を抹殺しているのでは

ないだろうか。

 

メディアの役割はたとえそれが不適切な声であったとしても、世の中に存在する

あらゆる声を拾って伝えることである。

 

それを考えると「学校が休みになって嬉しい」という子供の声がまったくないのは

逆に不自然だ。

子供の名誉を考えて、あったけど使っていないというのであればその時点で報道の

意味はない。

 

こういうふうに書いてゆくと、

「おまえは家庭を持っていないからそんなこといえるんだ」

という声も聞こえてきそうだが、ここでも誤解のないように念のためいっておくと、

オレは今回の休校騒ぎでお母さんお父さんが大変なことは百も承知で、そこについては

全面的に大変だと認めるし異論はない。

 

ただ、休校措置について大変なのは親目線であり、この記事については子供目線

で語っているのでそこはご了承を。

 

なんだろうね。

いい方がとても難しいし誤解を招くのも恐いんだけれど、今回のコロナ騒動そして

一斉休校って、ある意味では多くの子供たちの学校にたいする考え方や少数派の

子供たちの側面を浮き彫りにするいい機会とも捉えられるかなとオレは思った。

 

コロナはやがて収束する。

だけれど、学校という物がある限り、その中で「いじめ」も「体罰」も存在し続ける。

いじめ、クラスカーストという悪しき風習はウイルスよりも生命力があるのだ。

 

「コロナは嫌だけど、学校にゆかないでいいのはよかった」

って子供もきっと少しは存在する思う。

 

だから今回のコロナ休校騒動をきっかけにして集団生活になじめない子供たちの

心の声を聴いて教育現場の現状を社会全体で考えればいいんじゃないかなと思ったのだが、

今の報道や街の声を聴いていると、「学校にゆけない子供たちが可哀想」一色で

これが浸透すると、まるで一部の‘学校にゆきたくない子供たち’の考え方が世間から

ズレてるように思われてきてしまうのではないかととても心配だ。

 

学校にいって勉強したり友達と話すのが好きな子供が多数いて、そういう子供の

ストレスや心のケアを大事にしたいという優しさは否定しない。

でも、口には出せないかもしれないけれど、今回の騒動をあくまでひとつのきっかけ

として学校に行かないで済むことに安堵している子供たちもきっといるはずなのだ。

 

すべての子供が学校にゆきたがっていると決めつけることなく、大人はまずそこに

注目するべき。

 

コロナ騒動についてただ感染防止しか考えないままならば、人間はウイルスよりも

進化しないままだろう。

 

メディアまたは発言に影響力のある大人は、そこに存在するあらゆる子供の声を

拾ってバランスよく世間に伝えてほしいと切に願う。

 

そして小学生や中学生の子供を持つお母さんお父さん方は、今回の一斉休校を

子供が本当に残念がっているか、学校でいじめられているから本当は嬉しいんだけれど

親の前だから強がって残念がっているそぶりをしているんじゃないかという疑問を是非

持っていただきたい。

 

小中学生時代、集団生活に生きづらさを感じていた独り身ブロガーからのささやかな

お願いをもって本日の記事は終了とさせていただきたい。

誰もいわないから今回書いた。

以上。