ジョーカー | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

「反吐(ヘド)がでる」という言葉がある。

これはいわゆる悪者にたいして使われる場合が多い。

 

人は人を殺した瞬間に犯罪者になるが、すべてのテロリストは反吐がでる

犯罪者だろうか?

すべての通り魔は反吐がでる犯罪者だろうか?

 

すぐに極端に捉える右もいるから先に断わっておくと無実の人を傷つける

行為は決して許されることではない。

 

ただ、残虐で許せなくはあるが、反吐がでる悪かと訊かれたら一概には

なんともいえない気もする。

 

結果論として悪は悪ではある。

だが、テロリストの中ではその行為は‘正義’であるため、彼ら彼女らなりに

逮捕されることや自爆することの覚悟を持っている。

そして捕まったあとも、とぼけることはない。自分がやったと認める。

 

そして、これまで顔をマスクなどで隠して繁華街で暴れた通り魔をみたことがある

だろうか。たぶんないと思う。

 

それはやはり、犯行をおこなったあと、自分がやったということ、自分が犯罪者だと

いうことを認める覚悟は最低限あるからだと思う。

 

卑劣で理不尽で許せなくはあるが、犯行に走ったものなりに犯罪者となり、同時に

死刑になる覚悟もあるわけだと思う。

 

オレが前から思っている「反吐がでる悪」という存在は、モラルの問題というだけで

直接的な罪には問われないラインをずる賢くしったうえで、自分自身の保身と

利益のため、他人を陥したり傷つけ、その相手が犯罪者なるまで追い込み、相手がいざ犯罪を

おかしたら、まるで自分に一切その責任のないようなことをいい、善人面してその後ものうのうと

生きてゆく人間である。

 

反吐のでる悪というのは塀の中でなく、むしろ一般社会のそのへんに空気のように

自然にたくさん存在していると感じる。

そして本当に反吐がでる人間ほど目にみえるように人を殺さない。

人を殺したら自分の人生も台無しになるということを理解しているからだ。

 

いっていることと、やっていることが恥ずかしげもなく真逆なのに他人想いを熱く語る人間。

職場ではパワハラや横領で周囲の人間を追い込んでいるのに、家に帰れば良きパパを

演じ、お父さんは今日も一日家族のために頑張ったという面を平気でしている人間。

 

極論中の極論でいってしまえば、それが間違っていることにせよ、テロリストや

通り魔のほうが堂々と「自分は悪い事をやった」と認めているだけ潔いといえる。

 

昔、TBSで「人間・失格 ~たとえばぼくが死んだら~」というドラマがやっていた。

斉藤洋介演じる体育教師による体罰や、クラスメートからによるいじめで自殺した息子のため、

父親役の赤井英和が復讐するというストーリーである。

 

体罰の事実をしった赤井英和が斉藤洋介を学校のプールで殺害するのだが、

赤井が殺人をするように仕向けたのは、加勢大周演じる生徒想いのふりをする同僚教師。

体罰の現場写真を隠し撮りして、匿名で赤井英和に送ったのである。

 

しかもこれは善意の密告ではない。

歪んだカメラマニアの加勢大周は「人が人を殺す瞬間を写真に収めたかった」のである。

なので斉藤洋介演じる体育教師が自分の息子をいたぶっている写真をおくれば

怒り狂った赤井が斉藤を殺しにやってくるだろうと企んだ。

そして、計画はそのとおりになり、加勢大周は父親が体育教師をプールで殺す場面を

隠れてのぞき見し撮影。

加勢は夜、部屋でひとりその写真を見て

「ついにぼくは人が人を殺す瞬間を撮ったんだ!」と

性的に近い興奮をして、もだえる。

 

やがて警察の捜査が学校関係者たちに伸び、当然加勢も聴取される。

 

犯人である父親が体罰教師を殺したきっかけは、匿名で送られた写真であり、

それを送って殺意を煽った人間はあなたじゃないですか?と訊かれた加勢はとぼけるだけで

なく、こう言い返す。

 

「仮にその写真を送ったのがぼくで、それがきっかけで父親が殺しをやったとしても

ぼくがなにか罪に問われるんですか?写真を送っただけで犯罪になるんですか?」

 

加勢がすべての黒幕だと確信しながらも、いっていることは正しいので刑事たちは

なにもいえなくなってしまうという流れ。

 

理由はどうあれ、教師を殺してしまった時点で父親は「悪」になってしまう。

だが、本当に反吐のでる悪は加勢大周演じる黒幕である。

最初のほうで書いたとおり、モラルは問われたとしてもそれが犯罪にはならないというのを

しっかりしっていたうえで、他人を追いつめ、相手を犯罪者にしてしまう。

 

このように罪を犯さない存在である「反吐のでる悪」が、結果的に他人に罪を犯させ

「悪」を産ませてしまう流れは多いのかと思わずにいられない。

 

秋葉原無差別殺傷事件の加藤智弘は人を殺した時点で「悪」になってしまった。

それは否定しない。

だが、加藤を暴走するまでに追い込んだ巨大なぼんやりとした「反吐のでる悪」

に値するような労働環境や人間たちが背後に存在したのは間違いない。

 

ただ、加藤を追い来んだのがそういう人間や組織だったとしても、現実に殺して

しまったのは加藤である。裁かれるのも加藤である。

加藤が殺人を犯したきっかけが周囲の人間や組織にあったとして、精神的に追い詰めただけでは

罪には問えないだろう。

 

人を追い込んで通り魔を作りあげた組織や人間は、自ら人を殺したわけじゃないから

その罪の重さを感じない。

なので、通り魔を犯した人間たちが死刑の執行をまっている今も、悠々自適な普段通りの

生活をおくっているだとうと思うと、なんだかやるせない。

 

結局虐げられた者が「悪」に走り、「反吐のでる悪」が最後まで常識人のマスクをかぶり

平和な毎日を過ごしてゆくというのが皮肉な現実社会だと思えてくる。

 

最初のCMなどで観たときはあまり興味なかったのだが、映画雑誌の特集を読んだら、

世の中の理不尽や格差がかなり描かれている社会的な映画に仕上がっているから

一度観るべきだ、と評価されていたので、

『ジョーカー』

をすこし前に観にいってきた。

映画館に出向くのは『エイリアン:コヴェナント』以来だ。

 

 

なんでもアメコミ原作がアカデミー賞候補になるのは初とのこと。

 

まだ上映している映画館があると思うので、ここではあまり詳しくかけないが

まさに大人向けのスト―リー。

 

バットマンはでてこない。

 

貧困、犯罪、暴力、環境問題……

荒んだゴッサムシティで暮らすアーサーは、母親想いでコメディアンを目指す

優しい男。

 

しかし、そんな優しいアーサーに次から次へと悪意や不幸が襲いかかる。

そんなアーサーが悪のジョーカーへとなってゆく人生がひたすら描かれている。

 

アーサーをとりまくゴッサムシティの人間や環境はまさに「反吐のでる悪」。

そんな「反吐のでる悪」の手によって、心優しき男は「悪」へと変わってゆく。

なんとも切ない話だ。

 

雑誌の解説などにも既に紹介されている範囲なので書くが、アーサーは脳に欠陥が

あり、別におかしくない状況でも急に発作的に笑いだしたりしてしまう病気がある。

 

それをしらない、もしくは理解のない周囲は、いきなり笑いだすアーサーにたいして

「なにがおかしい!?」とからんだり、キモチ悪いといったりするのだが、この設定から

してもうアーサーの生きづらさがずしりと伝わってきて切ないものがある。

 

クリストファー・ノーラン監督のバットマン3部作。

『バットマン・ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイト・ライジング』もすべて

観たが、順番的にここにきて最後に敵役を主役とした『ジョーカー』が製作・上映された

のは良かったと思う。

 

(監督、ジョーカー役は違うが) もし、一番最初のこの『ジョーカー』を観せられていたら、

あとからバットマンが主役の作品を観たところで、バットマンのほうを応援する気には

なれなかっただろう。

 

結果としてアーサーは「悪」のジョーカーとなったが、映画を観ていてジョーカーに憎しみは

微塵も持たなかった。

むしろ、同情。

 

うんうん、そこまで貶され裏切られ、運命にもてあそばれたら、そりゃあ悪に走って当然だろうと。

憎しみどころか世間からひどい仕打ちをうけたジョーカーの「悪」を応援したくもなった。

もっとやっちまえ!もっともっと混乱させろ、と。

おそらく他の観客も観ていて同じように感じたんじゃないかと思う。

(ただ、ひとつ。ジョーカーことアーサーを襲う他の不幸はけっこうこのテの作品にありがちなもので

そこはあまり斬新さはなかったかもしれない)

 

主演でジョーカー役のホアキン・フェニックスの演技も良かった。

今回はじめてきく俳優だったんだけど、あのリバー・フェニックスの実弟だとしって驚いた。

たしかに名前同じだなあとはなんとなく思っていたが。

 

そうだよな。

リバー・フェニックスは若くしてこの世を去ったから、オレの中で彼は青年の顔で年をとってないまま

亡くなった感覚だけど、もし生きていればオレよりも年上だからもういいオジサンの顔になっている

から納得といえば納得。

 

あと、もうオレの年齢もバレていると思うからいうが、ホアキン・フェニックスは年齢もオレと同じ

らしい。

だからなおさら社会にたいする生きづらさを演じている姿に感情移入できたのかもしれない。

 

ちょっとだけ過激な描写もあるがそれでもしいていえばエロもグロもない。

だけどR15。

 

それはあまりにの現実社会のひどさ、そして裏切りや保身などの理不尽を浮き彫りにして

描いているからだといわれている。

日本もアメリカもその他の国も、そのへんの不満は万国共通だ。

 

15歳以下といえば、小学生や中学生。

親や教師たちから、やたらと「希望」やら「将来の夢」やら「努力は報われる」やらの

虚言を叩きこまれている時期だと思われる。

 

『ジョーカー』で描かれている「現実」や「絶望」は、これから社会にでてゆくことになる

そんな子供たちに現実をつきつけ、心にある希望を見事に打ち砕くだろう。

だからR15なのだ、たぶん。

 

でもある時期にはシビアな現実をしっかり教えるというのは大事だ。

 

R15という設定は、実は子供たちに向けての規制ではなく、オレら大人たちにたいして

この映画の中に描かれている社会は現実に近くて、そしてそんな子供に見せられない

ような現実を作っているのはあなたたち大人なんですよ、という皮肉も込めた

メッセージなのかあと、ふと思った。

 

ちょっと強引な流れの部分もあるけど、社会を担う一員として、そして世の中に

まだあふれる異常なことを再認識する意味として、観ておいて損はない映画だと思った。

 

 

 

おっと、記事終わる前に最後にひとことクイズ。

 

前々回、前回、そして今回と映画記事続けたけど、3作品連続紹介したのは意味がある。

3作品の‘共通点’に既にお気づきかな??(笑)