HongKong CALLING | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

政治ネタではあるが国内じゃなく国外のことなのでライトに通常公開。

‘右’からその類のコメントがやってきたらボクはそれを左には受け流さずに

削除スルーするのでそのつもりで。

 

ブログ開始直後に書いたかもしれないエピソードがいくつかあるが、それから

もうかなり経っていてここ数年読み始めてくれた人はまだ聞いてない件もあるだろう

から、そういうエピも必要性によって改めて記事に練り込んでゆく。

そんなエピのひとつで予備校時代にエキストラ事務所に登録していたことがあった。

 

ロケの案件があったときだけ、事務所から電話がくるということだったが、あったのは

たった一回でしかもそのときオレは不在だったから結局登録料500円払っただけだった。

 

ところがある日、長渕剛主演ドラマ「しゃぼん玉」の再放送最終回を観ていたら

スタッフテロップをにて、その登録していた日○プロダクションという名前がでているでは

ないか。

なんでそのとき、連絡くれなかったんだ!長渕を観れたのに!と勝手に憤ったものだ。

 

それはともかく、この「しゃぼん玉」というドラマ。

人気だったので観た人はわかると思うが、西新宿にちっぽけな診療所をかまえるチンピラ医者の

ポー(矢島てっぺい)とその仲間たちが、利権目的でその地を荒らす汚職政治家やエリートビジネス

マンと戦いを繰り広げるヒューマンドラマである。

 

柄はあまりよろしくないが、人情に厚く仲間や地域の人から人望ある長渕演じるポーは

最終回にて、表向きの顔は紳士で国民想いだが裏では汚ないことに手を染め、

口封じのためならばヤクザに依頼して仲間さえ消す次期総理を狙う汚職政治家の

南条(山村總)の演説現場に乗り込み、南条に向かって怒りを訴え叫ぶ。

 

現場には南条を支持する大勢の民衆がいるが、南条の本性をしらない民衆はみな揃って

長渕のほうに向かい「偽善者!」「帰れ!」などという罵声を浴びせる。

 

現場は騒然となり、テレビの生中継も入り、ついには警察や機動隊も突入。

 

中継でその様子を見ていたポーの仲間たち(哀川翔、故山田辰夫、国生さゆり)はポーを心配し

現場にかけつけてポーの援護をするのだが、機動隊や警察の過度な暴力により、みな血まみれ

のボロボロになってしまう。

 

そんな警察側のほうにもポーの仲間でありよき理解者である警官(石倉三郎)がいた。

仕事として、とりあえずそこにいる民衆をなだめる役でいた石倉三郎だが、同僚である

警官や機動隊たちの行き過ぎた攻撃で傷だらけになるポーはじめとする仲間の姿を目にし、

「ちくしょう!もう、こんな(警察の)仕事やってらんねえよ!」

といって怒りを爆発させ、帽子を叩きつけた。

そしてポーたちの援護をして同僚の警官たちにつかみかかって倒したことをきっかけに

石倉本人も周囲にいる機動隊にボコボコにされてしまう。

 

「しゃぼん玉」においてあまり語られるシーンではないが、オレはこの石倉三郎の漢気ある

シーンがとても好きだ。

 

その行動によって、自分の居場所(仕事)を失うことにもなるかもしれない。

だけど、間違ったことは許さない。

国や権力よりも警官として弱い立場、そして正しいことを訴えている友達を守る。

たとえ同僚の警官であっても、やり過ぎた暴力行為は許せない。

 

カッコよくて憧れるんだけど、自身も含めてこんなことできる人間がいるのは

まさにドラマの世界だけなんだろうなと思うとなんだか悲しくなる。

 

今、報道されている香港のデモの様子を見ると、警察のやり方は完全に間違っている

とはいわずとも、やはり本当に守るものが「正義」や「弱者」や「民衆」ではなくて

「お上」の命令なんだなと感じてしまう。

 

ここでは民主主義だとかそういう難しいことを引き合いにだして語るつもりはさらさらないが

やはり習主席率いる中国政府の独裁的なやり方はおかしい。

とくに香港が好きだということはないが、今回の対立をみているとやはり政治としての中国は

好きになれないので、香港を応援したくなってしまう。

 

綺麗事まったく抜きでいえば、権力を持つ側が話し合いに応じない限り、そのデモが

最終的に暴力的になってしまうのはある意味当然の流れだと思う。

ただ、心で思っているのは咎めないがデモの代表者が公式やSNSで「暴力にしてでも」と

発信してしまうのはマズイ。

 

そこだけは懸念したうえで、やはり中国本土政府の引き渡し案はあまりに一方的で香港の

人がおこったりデモをおこすには当然の流れだ。

日本人も他人事ではない。

もしオレの勉強不足で事実がやや異なっていたらそこはご容赦願いたいが、この条例によると、

日本人が香港旅行していたとき、仮に冤罪だとしてもなにかやらかしたら、その身柄が

中国本土に移送され、本土で裁かれることになるという。

あの独裁体制の地で裁かれたらどんな目にあうことか恐ろしい。

 

それが仕事だと血も涙もないことをいわれたらもうそこで論はストップだが、

香港の警官隊は本当に守るべき立場のほうを守っているのだろうか……

オレにはそうは思えない。

それこそ「しゃぼん玉」の石倉三郎役演じた警官のように、「やってらんねえよ!」と国民に

味方する警官はいないのだろうか。

 

いるわけないか。

それをやったらお上に反旗を翻すのを意味するから仕事を失うわけだ。

正義や秩序や国民の生活よりもお上を守り、自分の居場所と家族を守ることを優先する。

悲しいけどそれが仕事、そして義務というものなのか。

 

フェイクニュースかもしれないが、機動隊の一部が自ら発煙筒や火炎瓶などを投げて

現場の混乱を自作自演し、民衆がこれだけ過激化しているからそれを抑えるための

自分たちの行動は正当だとしている情報もある。

 

デモに相乗した暴動はいうまでもなく賛同しないが、警察隊の行動は看過できない。

 

かつて過激派は警察を「国家権力の犬」と表現した。

今こういう表現をすると中二病だとかいわれるのかもしれないが、香港の状況を

見ると、権力の犬とは言い過ぎだとしても、権力のコマとはいえてしまうような気がする。

 

正しいことを守るのではなく、上からいわれたことを守る仕事をして、それゆえ強い者側に

つき、弱い者に暴力をふるっている。

双方といえば双方かもしれないが、死者もでているというではないか。

そこの矛盾は対岸の火事と思えず、愕然としてしまう。

が、オレなりの正解もだすのが難しい。

 

でも、あえてすごく極端なこというとそれでも日本人は中国本土にたいして

あれだけのデモをおこす香港の民衆をいくらか見習うべきだと思う。

もちろん、暴力行為は基本NGだけど、意思表示は大事だ。

 

この記事でも何度か名前をださせて頂いているUさんも、話した時に

「今の若い人はおとなしすぎる」と語っていた。

自分の若いときもそうだったいう反省もふくめ、まさにそのとおりだと感じる。

だけど、思った以上に周囲の共感が得られないのが悔しい。

 

デモそのものに意味がないという人がいる。

意味うんぬん曰く、イデオロギー的に学生運動とかデモにアレルギーを感じている

人もいる。

 

それはそれ人それぞれだから否定もしなければ、逆に批難も受け付けない。

 

ただひとつ、誤解しないでもらいたいのは、デモとかに参加している人たち全員では

ないだろうが、そのデモによる声が、政権なり権力なりの対象にダイレクトに効果がある

なんてことは考えていないのだ。

 

たとえば最近だったら、高速道路のあおり運転殴打事件、

すこし前ならば、まんだらけの万引き事件を思いだしていただきたい。

 

どちらの事件も被害届さえあれば警察は捜査は当然行うだろうが、あそこまで全力では

やっていなかったんじゃないかと思う。

 

ただ、ふたつの事件には共通して幸いにも証拠映像があり、それをメディアが何度も

流したことで話題になり、

「あんなやつ、早く捕まえろ!」

という空気が蔓延し、警察としてもメンツと国民からの視線を意識したうえで、必要以上に

逮捕に必死になるしかなかった部分はあると考えられる。

 

対象となるターゲットを動かしたり変えようとするのではなく、、声をあげることで

周囲を動かしたり、そうしないといけない空気を生み出すことが改革につながるのだ。

 

不祥事を起こして雲隠れしていた有名人や政治家が、あるとき急にでてきて謝罪するのは

本人がその時期になって急に心から謝罪したくなったわけじゃないと思う。

マスコミや世間が予想以上に騒ぎ出したからもうオモテにでるしかないと思ってでてきた。

そうやって引っ張りだすことに近い。

 

 

香港の件、けっきょくどうなんだろう。

香港の人たちが起こるのは当然だけど、それでも香港より本土の中国政府のやり方が

正しいと思っている人も日本および他国にもいくらかいるのだろうか。

それもそれで個人の自由だから対論するつもりもないが。

 

人と人であれ、国民と政府であれ、間違っていることはやはり訴えていかないとなにも

良くならない。成功したか失敗したかは結果論だ。

行動には移せないとしても、せめて心の中では自分なりの正解を持ったままでいてほしい。

 

オレは就職浪人したので、まわりの友人知人よりも社会にでるのが遅かった。

 

卒業後何年も経ってから、先に会社勤めをした友人と会って呑んだりすると、

変わってしまっていた友人も少なくはなかった。

一方でまったく変わらない友人もいたし、半分くらい価値観が変わった友人もいた。

 

学生時代はさんざん、人を蹴落とすことの汚さや、話し方や外見で人を判断するのは

最低だと一緒に熱く語っていた知人が、社会人になってから再会したら急に

経済ニュースの話や、コミュ能についての大事さばかり語りだしたりする人間もいた。

 

ウソが嫌いだと胸を張っていっていた友人が、急に「でも、嘘も方便っていうしね」

と手のひらを返したようにいったりするようになった。

 

そんなときオレはなんだか寂しくなった。

 

ふたたび長渕の話で申し訳ないが、彼の歌に「友達がいなくなっちゃった」という歌がある。

形式上つきあっている友人はいるが、時間とともに価値観が違ってきてしまったという意味で

「友達がいなくなっちゃった」と歌っている。

 

友達から、おまえも変わっちゃったなっていわれた、変わったのはオレじゃなくて

実はお前のほうなんだよ、という嘆きの歌だ。

 

この歌の内容と心境がかなりシンクロした気分。

 

学生時代や若いころに似た価値観を抱いていたはずが、社会にでてから根本的な思想が

変わってしまった人間をオレは密かに

「帰化した知人」

「帰国子女の知人」

という2種類に分別している。

 

「帰化した友人」

これは、オレと同じ世界にいたのに社会にでてからしオトナの出世保身主義の世界の

住人になって、完全にそこの世界の住人になってしまった人。

再会しても、もう完全にそっちの世界の価値観の人だからもう共感しあいながら語り合える

話題もない。

 

「帰国子女の知人」

これは、オレと同じ世界からオレより先にオトナの世界には飛び立って、社会における

理不尽や回避できないウソや建前の重要さも経験し、仕事ではしょうがなくそれらを

やっているものの、本来の個は失っておらず、自分と再会するときは自分のやっている

そんなことに嫌気を感じていることを打ち明けてくれるような当時の思想をまだ持っている知人。

 

簡単にいえば、帰化した知人はもう自分とか考え方がまったく別の世界の人になって

しまった人。

 

帰国子女の人というのは、オトナの世界にゆき、その世界の文化やシステムも

しっかりわかりつつ、自分の世界にも戻ってきてくれて、あっちの世界の事情も

こっちの世界の事情もわかっている人。

 

酒を交わしながら話なら、後者のほうが有意義だ。

 

日本をでて、アメリカにいき、「もう日本も、日本の文化も興味ないから捨てた!」

といって帰化してアメリカ人になった人間と話すより、

アメリカいってアメリカの良いところも悪いところも体験した人間が

日本に帰ってきたとき「アメリカもいいけど、日本もやはりいいね」

という帰国子女のほうが、知識は増えたけど基本は昔のままでよかった、と

喜べそうだ。

 

なので、この場を借りて友人知人たちに願いたいことは、どんなにいい企業で

働いていたとしても、「オトナの世界」に完全帰化しないでほしい。

呑み会とか久々の再会で、出世論やらコミュニケーション能力のつけ方だとかいう

話はしたくない。

 

日常にてオトナの世界の文化(競争・処世・保身・その他理不尽)の真っ只中で

生きていくのはしょうがないが、せめて酒の場とかでオレと会うときは

本来の自分もそのままにしてオトナの世界の事情も経験している「帰国子女」として

戻ってきてほしい。

間違っていると思うことには間違っているといえる仲間が欲しい……

実際に動くことはできないとしても、せめて酒の場で語るくらいは。

 

 

うーん、冒頭でライトと書いて、実際とても短い記事で終わらせる予定だったけど

やはり最近政治関連書いていなかったから、書きたい欲が溜まってて爆発して、

長くなったうえにラストに話がまたズレたような。スマン。

 

 

最後に繰り返していうが、香港が好きというよりも今回に限らず中国政府の独裁が

おかしいので、この騒動においては香港を応援したいというのがオレの個人的意見。