人間とはどうしてこうも二極化したがるのか。
合コンにゆけばSかMかで、人はぜったいにどちらかだという話題になる。
政治の話すれば、右か左かにわりふりたがる。
あー、メンド。
ここ数年の抽象的な分別でいえば「勝ち組・負け組」という風潮がその最たる例かもしれない。
スポーツは順位で明確にクラスがわかれる。
たとえばプロ野球は1リーグ6チームである。
1位から3位が俗にいうAクラス。
4位から6位(最下位)がBクラスと呼ばれる。
でも、この呼び方もまた微妙であって、ケースによってはAクラスだけど
強いとか勝ているとは限らない場合もある。
10勝12敗とかで負け越し中だけど、4位以下のチームがそれ以上負けているとか
全敗したりしているから繰り上げ的にAクラスの3位にチームが位置しているときもある。
逆に10勝9敗とか勝ち越しているにもかかわらず、上位3チームがそれ以上に絶好調で
15勝以上しているから順位的にBクラスにいるっていう場合もあるのだ。
だからAクラスの3チームの間でも1位と3位の差が歴然の場合もあれば、
Bクラス内で、4位のチームはそこそこ勝ってて強いけれど、最下位のチームが全敗
してて、4位と6位にすごく実力の差があるっていう場合もあり。
最下位チームよりずっと力の差はあるのに、4位以下に一緒にひしめいていただけで、
同じ「Bクラス」というひとことでくくられてしまう4位のチームがいたとしたら、それは
可哀想な気もする。
これ、職人の世界や営業マンの成績でもあるのだ。
たとえ優秀な営業マンしかいない部署であっても
順位をつける限り、Bクラスや最下位は必ず存在してしまう。
営業マンが50人いたとして、売り上げ1位から25位までがAクラスで、
26位から50位がBクラスだったとする。
26位が決して悪くない100万売り上げてたとする。
最下位はまったく仕事せず、能力もなくたった1万しか売り上げてなかったとする。
でも本人の苦労や現場をしらないおエライさんは、ひとくくりにして
「おまえ‘たち’Bクラスの人間はもっと……」
というようないいかたをしたり。
全体を二分化したら、たしかに同じBクラスに属するが、それでも26位と最下位50位
じゃ、費やしてきた苦労がまったく違うわけ。
だから単純にAクラスかBクラスかだけで評価するのはいかがなものかと。
学生時代にバイトとかで経験した技術系、職人系の仕事も、おエライさんたちは
「一人前」と「半人前」
に二分化したがる傾向がある。
「おまえはもう一人前」だとか、「おまえはまだ半人前なんだから!」とか
なにかとあれば口にしていた印象だ。
これもね、比較的まだ新人というくくりだけで、必死におぼえようとしているんだけど
おぼえられない新人のオレと、もともとダラけててやる気がない新人が一緒にされて
上から
「おまえ‘ら’は、まだ半人前なんだから!」やら、
「おまえ‘ら’は、まだ技術者として未完成なんだから気合いれろ!」
などと叱咤されたこともあった。
働く人間として未熟だったり未完成なのは事実なので、おこられるのはしょうがない。
でも結果論だけで、一生懸命やっているのにできないオレと、もとからサボっているソイツと
同じくくりで叱るのは納得いかない。
たしかに技術者としてはまだまだ未完成だが、オレとそいつは違う。
そいつの‘未完成’はいってみれば、小学生が途中で飽きて組み立てをほっぽらかした
プラモデルだ!
オレのほうの‘未完成’はいってみれば、サグラダ・ファミリアのような趣き溢れるものだ!
奥ゆかしさが決定的に違う!!←それも何様だw
二分化評価、比較評価だけで、なぜ、そこを見ない? そこで判断しない?
それがオレが長い間抱いている世のシステムへの疑問であり、
同時に今後も決して解決されることがないであろうと憂うテーマである。
Aクラスとか一人前とかって、何をもってそういうのか?
スポーツチームとか営業マンだったら数字だけだろう。
職人だったら、その技術や知識だけだろう。
その要素だけならば、Aクラスとも一人前とも呼べる人はウジャウジャと
死体にわくウジムシのごとくたくさんいるけれど、周囲への指導力やカリスマ性まで
ふくめていうのであれば、オレは今までそういう人物に会ったことがないかも
しれない。
もし、仕事や技術とともに、人望やその他の魅力を備えた人間がいたら、それを
完璧と呼ぶのだろうか?
そうなのだ。
オレは昔からその「完璧」というものの定義をよく考える。
人間というものはミスをするから人間。
ミスをしなければ人間ではない。
なのでミスをしないことを完璧というのであれば、完璧な人間などいない。
ん?でも待てよ?
ミスをするからこそ、人間として完璧なのかもしれない。
ミスをしない人間はロボットだ。
だから欠陥があってこそ人間としては完璧といえるのもある。
そもそも完璧というものが存在するのか。
世の中に無駄な仕事はひとつもないという人がいるが、そもそも「無駄」なものが
ないのであれば、「無駄」という言葉自体が存在しないはず。
ないものを示す言葉などない。
精神論抜きで世の中には無駄があるのだから「無駄」という言葉は存在している
わけである。
だから、きっと「完璧」というものもどこかに存在するのだろう。
でも完璧という定義について完璧な説明をこなせる人はなかなかいない。
二葉百合子くらいか……って、あれは完璧じゃなくて岸壁。
こんなネタ、オレより上の人じゃないとわからん。
ま、あといくら話したところで「完璧」における哲学の答えは導き出せないと思うけど、
どうして今日この完璧つながりで、RADIOFISHもといオリラジの「PERFECT HUMAN」
をとりあげたかといったら、地元でやっている夏祭りのカラオケ大会で去年若い子が
櫓の上でこれを熱唱してたから。
今日たまたま同じ場所を通ったら、今年もまたやってて、
「ああ、そういえば去年はここで若い男の子がノリノリでパーフェクトヒューマン歌って
たなあ~」
と思い出したから。
ジェネレーションギャップが3Dのごとく浮き出てて、やぐらで絶唱する男の子と
その下で順番を待っているジイチャンバアチャンの間にケニアと南極くらいの
温度差が感じられた(笑)
オリラジはとくに好きでも嫌いでもないけれど、あっちゃんは頭がいいのは
認める。そして策士。
一部から「お笑いなのに本業じゃなく歌で話題作って」と批判されるのも計算の
うちでこの企画に打って出たのだと思う。
歌詞も途中まではハナにつくようだが、サビあたりであえて「ナカタ!」と
個人名を入れるあたりでチープにし、冗談ぽさをアピールして己惚れた歌詞だという
ようなガチ批判をさりげなく回避している。
ナカタって歌詞にはいっているだけで、カラオケで日本中のナカタさんがネタとして
歌ってくれるのもあると思うしね、「上からマリコ」と同じ。
事実、北海道日本ハムの中田翔が打席に立つときの応援歌になっていたとも思う。
オリラジは各方面から否定的な声を受けてゆくこと確信犯で、これからなにげに
芸能界で生き抜いてゆくんじゃないかと思う。
話は戻るが、完璧な人間などいないし、なんでもクラス分けする周囲の評価なんて
気にすることはない。
数字で結果出している以上、評判や人望がその倍以上に悪い人間も多くみてきた。
丁寧にかつ慎重に、他人を蹴落とすことなく出せる結果こそ誤解もまねき時間も費やすものだ。
今日指摘されて明日出せる結果なぞ、三流刀職人による付け焼刃のなまくら刀。
サグラダ・ファミリアは完成が2026年の予定だが、それについて「遅い!」と文句いっている
人間を見たことない。
そーゆーこと。