君たちはどう生きるか | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

義理はしっかり通すとか、曲がった生き方はしないとか。

口でいうのは簡単だし、抵抗なくそう言い切る人間ているけど、実際生きているとこれほど

難しいものはないというのはかこの経験からヒシヒシ感じる。

 

大学生だった19歳のとき、バイト先にひとつ下の男子が入ってきた。

ただし正社員として。

地方にあった本社から新入社員として高校卒業後すぐに配属され、ひとりで東京まで

やってきた。

 

年上のバイト、年下の正社員といったビミョーな関係ではあったが、ほぼ同年代だった

こともわり話題も合って仲は良かった。

誘われて一緒に代官山や渋谷にもいったのをおぼえている。

(地方出身者のほうが熱心に東京を調べるので、都民よりも店に詳しかったりするw)

 

そんな彼もオレがまだバイトに籍を置いているうちに、会社を辞めて地元に戻ること

が決定した。

職場としての送別会もやったが、せっかくだから個人でふたりの呑み会もやろうと

オレが企画し、誘い、ふたりで居酒屋で吞んで餞別代りにご馳走した。

 

ここはご馳走するから、とオレいったら彼は熱く、

「ありがとう!ほんとにありがとう!帰ったら名産の○○寿司送るから!」といい、

その日はわかれ、後日彼は地元に帰った。

 

それ以降、寿司が届くことはなかった。

 

いや、たぶん、あの日あの瞬間彼は本当にそのつもりだったのだと思う。

でも、いざ帰って数日たったら、きっとめんどくさくなってしまったのだろう(笑)

 

ふるさと納税じゃあるまいし、こちらも別に見返りを期待してご馳走したわけじゃないし

こういうことがあったからといって、むかついたワケでもなければ、彼のことを嫌いになったワケ

でもない。いくらオレでのそこまで器は小さくないので。

ただ自覚していないだけで、オレ自身も今まできっと、どこかで誰かに同じようなことを

やっているんだとは思っている。

 

あと、企業とかの不正や隠ぺい問題が発覚したとき、やはり一般市民や消費者としては

それを叩く。

それなりのことをしたのだから叩かれるのは当然ではあると思う。

 

でも……

 

アナタが企業で働いてて、妻(夫)と数人の子供を養っているという状況を仮定して

想像してもらいたい。

 

勤続20~30年。

家族数人を養うには問題ないポジションにいて、問題ない収入もあるとする。

 

アナタがそこまでいられたのは、いつもアナタのことをフォローしてくれたり

優しくケアしてくれる存在の上司Aさん(同僚でもよい)がいたからだとする。

 

だが、ある日、会社としての不正あるいは社長の許されない行為が社内で

発覚したとする。

 

曲がったことを許さないAさんはそれを告発する姿勢でいる。

たとえそれが世間にしられて認められたとしても、告発後なんらかの圧力で

会社内からは追放されるのが明らかな流れだとする。

 

アナタは今の立場で、会社の不正の目をつむったままだんまりを決め込めば

これまでと変わらないポジション、変わらない収入を維持し、自分含め家族を養ってゆく

ことは可能だ。

 

ただ、ここでさんざんお世話になったAさんから、

「会社と社長を告発するのに、一緒に戦ってくれ!」といわれたら、どうするだろうか?

 

もちろん、Aさんのような他人思いの人であれば、自分の思想に他人をまきぞえにしない

だろうが、しいて「Aさん側につくか?会社側につくか?」ということを問う。

 

そしてもうひとつ条件。

Aさん側についたところで、味方になったわけだから会社を追い出されてもAさんが

雇ってくれるとか、再就職の世話をしてくれるとかいうのはナシ。

つまり不況下で完全フリダシ。

 

人道として正しいのはあきらかにAさん。

しかし、現実としてこれまでの地位と収入を捨てず、自分と家族が生きてゆくことを

希望するのであれば、選択肢は必然的に「人として間違っているほうを選ぶ」という

可能性は高いだろう。

ドラマの「半沢直樹」でも滝藤賢一演じる役がそんなハメに追い込まれていた気もする。

 

今通っている病院の待合室に話題の漫画「君たちはどう生きるか」があったので、

その時間を使って軽くではあるが読んでみた。

 

実際には子供社会の友人間の話であるが、オトナの世界におきかえれば今ここで

書いたような世界観である。

 

パラパラとしか読んでないが、印象に残ったセリフが2か所あった。

 

・今の時代は健康な環境にいるべき人たちが健康的な環境にいられない。

・悩むということはそれはキミが正しい方向へゆこうとしているということ。

 

うん、悩まない人って多い。

ポジティブと鈍感をはき違えている。

 

自分の発言や行動の見直し作業をしない人。

そのとき、誰もイヤな顔をしていなかったから、自分は決して間違ったことや

人を不快にするようなことはいっていないと過信し、見直しをまったくしない。

 

たとえ、そのとき、その場にいる人がみんな笑っていたとしても、

「でも、もしかしたらあのとき、愛想で笑っていたけれどオレの言葉のどこかにトゲが

あって、ひっそりと傷ついていた人がいたかもしれない」

というくらいの‘見直し作業’が現代の人には必要なんじゃないかとオレは思う。

 

もちろん、オレみたいに考え過ぎも考え過ぎで病んでしまうかもしれないけれど

それでも鈍感で自分は間違っていないと思い込んでいる人間よりかはマシ。

 

これまでの経験で思ったこと。

人にたいして「鈍感」だといってくる人間ほど、その当人自身が鈍感であるということ。

 

 

でも、こういうテーマこそ煙たがる人もいるから、‘どう生きるか?’ってホントに

難しい。

 

たった一度きりの人生だからやりたいことをやろう!

意義ある人生を送ろう!

 

とかいう叫びは昔から聞く。

 

でも、誰だったかなあ?

みうらじゅんだったような気もするなあ。

エッセイでこんなことを書いていた。

 

「たった一度の人生なんだから、テキトーにいい加減に生きようよ」

と。

 

いわれてみればたしかにその視点もありかなって思えた。

 

たとえば旅行って、本来リラックスしたりダラダラとガス抜きしたりするものじゃない?

 

でもいざゆくと、せっかく来たんだからあそこも観ないとモッタイナイ!

アレも食べないとモッタイナイ!とかえって忙しくなって、逆にものすごく疲れてしまう。

 

人生は旅みたいなモノってよくいうけど、それを当てはめていえば、実際そこまでいい加減に

過ごさないとしても心構え的には

「たった一度の人生なんだから、肩張ったり目標もったりせず、テキトーに生きようよ」

ってくらいの意気込みでいたほうが、ヘンなプレッシャー背負わずいい方にゆくかも

しれない。

 

ここに来て、タモさんの名言である

「やる気あるものは去れ」

を再び思いだした。

これほどいい言葉に出逢った記憶はない。