地獄の黙示録 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

高校時代の悪友Mから誘いがあり、先日夜立川で会い一緒に飯を食って

きた。前回あったのがGWだから、約半年ぶりだ。

 

例によってその場にはいない旧友の話をはじめとする懐かしい話や

近況報告などで楽しい時間を過ごさせてもらったのだが、途中数分間だけ

朝まで生テレビ化した時間があった。

 

議論をかわすというのは必要なことだと思うし、もう昔からしっている仲だから

険悪な空気とかにはならなかったが、互いにややヒートしてしまった。

 

ここでは前からおなじみだが(笑)、そのときの内容は「仕事にたいする姿勢」である。

 

オレのスタンスとしては以前小藪千豊が代弁してくれるようにテレビでいっていたが

「やりたくないことを食べてゆくために我慢してやるのが‘仕事’というもの」

(じゃあ、小藪はお笑い好きでやってるんじゃないのか?という声もあると思うが

あくまで彼は自分のことじゃなく一般論をいっているのだと捉えられる)

 

でも友人Mが主張するのは

「仕事を楽しもうと思わないとダメだ!」

である。

 

典型的なよくある対立構造。

 

純粋に本当に仕事が楽しいという人はそれで構わないと思う。

好きで楽しいことをやってお金もらえるならば理想の頂点じゃないか。

羨望はあっても批判はない。

 

でも無理に好きになったり楽しもうとする必要性はないと思っている。

 

つまらなかったり辛いなら、それはそれで仕事と割り切って、休日やプライベートを

励みにして事務的に乗り切ればいいというのが論だ。

 

面白くもない仕事なのに、無理して「楽しもうとしないとダメだ!」と自分にいいきかせ、

そのプレッシャーで精神崩壊したものならば、仕事どころかプライベートにおいても

まともな生活をおくれなくなるオチが待ち構えている。

 

仕事を楽しむべきだと力説する人間は、趣味らしい趣味がなかったり、あるいは

本音では辞めたくてしょうがないけれど、パワーがないから辞められず、

かといってそれを口にすると自分がネガティブだと認めることになるから

自分にも他人に対しても「仕事を楽しめ」といって言いきかせているような印象がある。

 

ただ、オレも自分と異なる考えにたいして、すこしも相手の立場にたって考えようと

せず、すぐに排除や拒絶するようなクズではない。

 

では、あえてちょっと「仕事の楽しみ方」について考えてみよう。

 

まあいいたい人の気持ちもわからんでもない。オレもかつて職場でよくいわれた。

 

仕事を楽しめるのがプロであれば、その楽しみ方は2種類あるとおもえる。

 

①仕事内容そのものや取り組みを純粋に楽しむ

②仕事中における休憩時間や、営業あるいは出張などでいった先の環境を楽しむ

 

①にかんしては、言葉でいうのは簡単だが、実際これほど難しいことはない。

 

部下を持つエラい人はよくいう。

「ちょっと考え方を変えるだけだよ。それで気の持ちようも上司の評価も変わる」と。

 

考え変えれば上司からも褒められるようになるようなことはよく聞かされるが、まるで

塩を天塩に変えただけでいつもの料理が褒められるようになるのと同じようなノリでいわれる

ほどそれは簡単なモンじゃない。

考え方を変えることがもっとも難しい作業なのだ。

 

てっとり早く本当に楽しめるのは②に間違いない。

営業途中の昼めしに上手いランチを食べたりとかお手軽にストレス発散できる。

 

休み時間や休日はどう使おうがそこまで組織に管理される必要はないと思う、が……

 

これも職業によってとか、そのときの状況によってだろうけど、仕事時間とプライベートな

時間を完全に割り切れるのが本当のプロなのか、それとも絶えず仕事のことを意識している

のが本当のプロなのかと考えはする。

 

たとえば葬儀屋さん。

ある葬儀屋勤務の人がいうに、葬儀は仕事だから一件一件の遺族の方に感情移入

していたら心も身ももたないとのことだった。

 

これはある意味正論だと思う。

その仕事をずっと続けるためにはそれなりに割り切ってクールにやらないと無理だろう。

 

だけど、遺族側の立場からすれば事務的で機会的に段取りを進める業者よりも、

一緒になって涙ぐんでくれたりする担当とかのほうが印象はいいと思う。

 

その葬儀が終了したあと、たまたま街でその葬儀屋の人が派手な私服でアホみたいに

酔っぱらって騒いでいるのを目撃などしたら、遺族の人としてはあまりいい感じはしない。

だけど、それは葬儀屋さんの担当にとっては、もう仕事が終わったあとのプライベートな

時間だから、別になにも悪くないし誰に気をつかう必要もない。

 

神戸の児童連続殺傷事件においても、少年Aの通っていた中学校長が叩かれたことが

あった。

 

事件があった年度の卒業式終了後、ストリップ劇場にゆき4時間ほどはしゃいでいた

ところを週刊誌にスクープされ、不謹慎だと叩かれ、その後「ストリップ校長」という不名誉な

レッテルまで張られた。

 

当時は不快感をおぼえたものの、改めて考えてみたら別に業務をサボっていったわけではない。

卒業式終了後にいったのである。

カッコはよくないが、あくまで終業時間外の自分の時間にいったわけである。

 

でもやっぱり世間は

「校長ともあろう人が卒業式の日に」

「ひとりの生徒が殺されたその年の卒業式なのに」

というイメージ、モラル的なモノがあって許せなかったのかもしれない。

 

別にこの校長の肩を持つつもりはないし、世間もおそらく「喪にふくせ」といいたかった

のだろうが、すごくシビアないい方してしまえば、そこで校長がおとなしく家に帰って

喪にふくしていたところで、学校や教育現場の状況がなにか劇的に変わったという

こともないだろう。

 

当然、あれだけの事件をおこした学校だけに保護者からすれば、

「この時期になんて不謹慎で破廉恥な教育者だ!」とは思うだろうが、その自分の時間で

息抜きをすることで、今後校長としての活力を養えるというのはあるかもしれない。

(だとしても、なにも卒業式のあとにゆかず、もうちょっと期間おいて落ち着いてからいっても

よかったんじゃないかとは思うが)

 

今例をふたつあげた。

端的ではあるが、この感情移入しない葬儀屋さんとストリップにいった校長がいわゆる

「割り切りタイプのプロ」だと思う。

 

一方で、仕事以外のときでも顧客や世間のイメージを考える人は相手にとって印象は

いいかもしれない。だけど果たしてそれはプロなのだろうか。

一生、限られた少ないお客さん相手にやってゆくならば、こういうタイプの人のほうがいい。

 

でも、生涯で不特定多数の人を相手にしてゆく仕事ならば、いちいち感情移入してたり

世間の持つ職業イメージに縛られてたら潰れてしまいそうである。

好かれはしても続かない。

 

本当のプロの条件とはいったいなんだろうと考えてしまう。

 

それは軍隊にも当てはまる。

営業マンにとっての職場が繁華街やオフィス街ならば、軍隊の職場は戦場である。

 

できるだけ多くの敵兵士の命を奪うような環境であっても、職務を遂行するために

その‘仕事’と‘環境’の中にも楽しみを見つけて、活力を養うのが本当のプロなのか?

 

「仕事を楽しむべき」という論を唱えるならば、それも当てはまらないといけない。

 

 

ベトナム戦争を題材とした数ある映画の中の1作。

 

フランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』。

 

 

地獄の黙示録 [DVD] 地獄の黙示録 [DVD]
1,071円
Amazon

 

――

ベトナム戦争が真っただ中のサイゴン。アメリカ陸軍情報部のウィラード大尉にある密命が下される。

それは、カンボジアに特殊任務で赴いたままジャングル奥地に自らの王国を築き、カリスマ的な存在と

化した危険人物カーツ大佐を暗殺せよ、というもの。

任務を全うすべく、ウィラード大尉は4人の部下とともに哨戒艇に乗り込み川をさかのぼる。

道中、極限状態に晒され続けた彼らは幾多の異常な世界を体験していく。やがて彼らはついに、

ジャングルの奥深く、カーツ大佐が潜伏する“王国”へと辿り着くのだったが……。

(amazonから引用)

 

内容は上に引用した通り。

 

軍を離れ、ジャングル奥地で王国をつくったカーツ大佐を危険人物とみなし、暗殺の命令

をうけ、メコン川をさかのぼってゆくウィラード大尉一行。

 

そんな環境の中でウィラードは人間の狂気的な場面にたびたび遭遇する。

 

同胞のキルゴア大佐は大のサーフィン好き。

人々が殺し合う戦場という異質な空間のなかでも、そこにある川でサーフィンを楽しむ。

その場所、その川だからこそ最高なのだとゴキゲン。

 

営業マンでいえば、営業先に出向いたついでにそこにある有名スポットを観光した

というようなものである。

 

ただひとつ大きく異なるのは、その現場が人が死ぬようなことがあるのとない

のとということだけである。

 

大勢の人間が殺し合うこの状況下ではしゃぎながらサーフィンを楽しみキルゴア大佐に

ウィラードはなんともいえない心境になる。

 

またキルゴア大佐はナパーム弾の威力と匂いを偏愛している。

ナパーム弾の匂いをアツく語る姿はエキセントリックではあるが、それもいい方によっては

戦場という職場で、殺し合いという仕事を楽しんでいるとも表現できる。

 

戦争映画でありながら、要所要所でいろんなことを哲学させられる部分があり、

ベトナム戦争をシステムや綺麗事が溢れる世の中の縮図として現した映画のようにも

感じられた。

 

 

それはさておき、本編の話題に。

この映画はほんとうにスケールがすごい。

 

コッポラが私財を投げて製作しただけのことはある。

 

登場するものにおいて、銃弾と死体以外はすべてホンモノ。

 

セットを組んだというよりも、コッポラがもう一度ベトナム戦争をやらかしたと表現する

人間もいるほどの規模。

 

ナパーム弾が森を焼き払い、炎で一掃するシーンなんて、今の映画では逆に不可能な

演出である。

 

当時のスタッフのこぼれ話では、ロケ地の規模があまりにも広すぎて、通常の撮影用

ライトでは光が足りないため、爆発における光を光源として利用するしかなかったのも

あるようだ。

 

ワーグナーの音楽も見事なまでに映画の世界観にピッタリとハマっている。

 

キルゴア大佐の戦地サーフィンとナパーム弾偏愛にとどまらず、慰問としてプレイメイト

たちが夜にヘリで宿泊地に到着するシーンもまた極限の中のエキセントリックを描き、

ウィラードはここでもなんともいえない違和感を抱く。

 

戦争という環境において、どちらかといえば敵よりも味方の中に狂ったものを見続けながら

やがて、暗殺する指令がでていたカーツ大佐の築いた王国へ到着するウィラード大佐。

 

ラストは哲学的な流れだ。

 

「ミイラとりがミイラになる」という言葉がある。

 

でも、冷静に考えてみると、もしかしたらミイラだったのはこちら側で、今までミイラと思っていた

あちら側が正常な人間の世界だったのかと気づくときがくるかもしれない。

 

 

追伸。

酔っ払いながら長文書いたので、例によって途中文章構成が破たんしているところが

あるかもしれないのでご了承を。