嶽本野ばら「通り魔」 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

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そういえば小中学校のとき、球技大会以外にも苦痛としかいいようのない

クラスイベントがあった。

それはレクレーション大会。

 

クラス全員がもっと仲良く一緒に楽しむ機会を作る時間という大義名分の元で

開催されるそれは担任が主催者となり、その名のとおり教室内でいろんな

ゲームをやる時間だ。

 

球技大会が「屋外の憂鬱」ならば、レクレーション大会は「屋内の憂鬱」。

厳密にいえば内容によっては楽しめるのだ。

たとえば、クイズ大会とか宝探しとか。

 

でもそんな内容では多数および担任が納得しない。

球技大会ならだいたい暗黙の了解で野球に決定するように、室内の

レクレーション大会なら同様に定番が決まっている。

 

仕切る教師の立場からしても、同時にすべてのコマ(生徒)を動かして

自動的に全員参加させられるから楽なのだ。

 

――「フルーツバスケット」

 

この名前のゲームをご存じだろうか。

小学校や中学校のとき、経験したことがある人も読者さんの中にいるんじゃ

ないかと思う。

 

これがまたオレみたいな大人数や注目されるのが苦手なタイプの子供には

ある種の`精神的公開リンチ’ともいえる忌々しい憂鬱なゲームだった。

「花いちもんめ」とは違った残忍性を秘めた性悪な遊戯。

 

内容を簡単に説明すると、部屋の中で椅子を円形に並べる。

参加生徒数が30人だとしたら、椅子は29個。

人数よりもひとつ少なくし、ひとりは座れない状態となり、その人がオニ。

 

オニはみんなの座っている椅子の円の中央で、座っている人にたいして

なにかひとつの条件をいう。

とたえば「男子」「○○町に住んでいる人」「9月生まれの人」などなど。

 

オニがいった条件に当てはまる人は自分の席を立って移動して、同様に

他の人が空けた席に移動してそこに座らないといけない。

オニもそこで空いた席を見つけてすわるように動く。

 

席の数はひとつ少ないから、そこで座れななかった人が新たなオニとなり、

また同じ流れで、なにか要素を投げかけて席を確保する、という繰り返し。

 

ただ、ここでオニが「メガネをかけている人」といった場合は、メガネをかけて

いる人だけが席を立ち、他の人が空けた席を探して誰よりも早く座ればいいのだが

オニが、

「フルーツバスケット!!」

といった場合は条件ウンヌン関係なく、そこにいる全員が自分の席を立って

別の席を探して座らないといけない。

 

なので、オニになった人間は円の中心で、多数の人間からの視線を浴びる

はめになる。そんな遊び。

 

反射神経が鈍いうえに、あがり症なオレはこの遊びが嫌で嫌でしょうがなかった。

ほとんどのクラスメートにとっては、たかが遊びかもしれないが、オレにとっては

オニ→さらに席に座れず2回連続注目浴びるケース。はまさにに公開処刑以外の

なにものでもない。教育現場は中世へ漂流してしまったのかとさえ感じた。

 

でもクラスの中にも同じようにこのゲームに苦痛を感じているやつが1人か2人は

いて、そいつが隣になったとき、耳元でぼそっと、

「もしオニが『フルーツバスケット!』っていったら、ささっとここだけでふたりで隣同士

いれかえようぜ」

と提案してきて、その案に乗ったりしていた。

 

いくら反射神経が鈍い人間でも、すぐ隣りの席であれば他のクラスメートに

座られることなく、さっと移動して座ってしまうことが可能だ。

 

なのでそこで子供の世界のインサイダー取引というか癒着を作り、オニが

「フルーツバスケット!」と叫んでも、クラスメイトのほとんどがバタバタ座る席を探して

走り回っている中、オレと同志はすぐ隣り左右交換するだけで、やりすごしていた。

 

でもそのうち、クラスのリーダー的なやつ見つけてがみんなの前で告発するのである。

「先生! みんな! さっきから○○と××が隣りの席にしか移動してないぞ!!」

と。

 

そこで、ズルいだのなんだの騒がれて、先生が「移動する場合すぐ隣りは禁止!!」

などとルールが規制され、またまた公開処刑への道のりが近くなる。

いやだった。とにかくいやだった。

教師っていうのは、なんでも「みんな一緒に楽しむ」という思想ありきで、ひとりひとりの

苦痛や嗜好はほんとにどうでもいいと思っているんだろうなとこの頃から思い始めた。

 

ただひとつ正直にいうと、そのゲームに参加したことで自分が何度もオニになったという

記憶はない。

 

自分がオニになって円の中央で視線を浴びることを考えたら、オニが移動する人の

条件をなにかいうたびに、「自分に当てはまりませんように……」と願い、真剣にビクビク

していた。

 

ゲームを楽しむなんてことは1mmも出来なかった。

それどころか、早くこのレクレーション大会が終わって欲しいと思い続けながら参加して

いたものだった。

 

さて、今回なぜオレがここで急に「フルーツバスケット」のことを思いだして、ダダダーっと

書いたかというと、すこし前に読んだ嶽本野ばらの『通り魔』という小説の中で、主人公が

そのフルーツバスケットの苦い思い出を回想するシーンがあり、それを読んで、

「これって、オレのこと書いているんじゃないか!?」

と、ものすごく共感したからである。

 

ここまでの前フリで書いた内容は、ほぼオレの実体験でありオリジナル文章であるが、

クラス内におけるフルーツバスケットに参加させられた主人公の語りもまた、すごくリアル

でオレもそういうシチュエーションになっていたかも……と感じさせられた。

 

――

小さな障害はあるものの善良だった少年が残虐な犯行に突き進む、慟哭必至の衝撃作!

(amazonから引用)

 

人と話すのが苦手なコミュニケーション障害を持つ主人公の少年は、高校生のとき、

熱血系の男性教諭がクラス内の仲をさらに深めるためにと提案したフルーツバスケットが

精神的にとても苦痛だったことを語る。

 

ゲームの中でオニになってしまった主人公。

円の中心でクラスメートの視線をあびながら、どうしていいのかわからず、なかなかなにも

いえない。

 

「どうした!? なにも思いつかなかったら『フルーツバスケット』でもいいんだぞ?」

と焦らす熱血教師。

 

それを聞いたが大きな声を出せず小さな声で「フルーツバスケット……」という。

 

「え!? なに!?」

「聞こえない!!」

そんな声が女子生徒の間から聞こえてくる。

 

思い切って大声で「フルーツバスケット!」と叫ぶ。

それにより今度はとりあえず教室内にバタバタと動きはでたものの、

主人公の耳にはあちこちからボソボソと、

 

「またフルーツバスケットかよ……」

「2回連続はないよな……」

などと批判のささやきが。

 

精神的に追いつめられる主人公。

 

経験がある人、該当する人ならば気持ちが痛いほど伝わると思うが、

この風景描写と心理描写は、徹底的にリアルだ。

 

作者自身が経験したか、あるいはそれを経験した人によほど綿密な取材を

したかのどちらかとしか考えられない。

 

嶽本野ばら氏は現在50歳を越えている?とのことだが、世代的にご本人も

学校とかでこの「フルーツバスケット」の経験があるのだろうか?

 

とにかくこの「フルーツバスケット」というゲーム。

オレは大嫌い。

やりたい人はやりたい人同志で勝手にやってていただきたい。

 

もしかしたら今の小学校や中学校でも行われてたりするのだろうか。

だとしたら、強制的に参加させられている1部の子供が可哀そうでならない。

 

フルーツバスケットなんてキュートな名前がついているがとんでもない。

亡くなった津川雅彦が出演していた石原慎太郎原作映画に「狂った果実」と

いうタイトルの作品があったが、あのゲームにおける椅子が描いた円形は

まさに「狂った果実の籠(フルーツバスケット)」である。

 

それはさておき……

そんな生きづらい学校生活を送っていた主人公もなんとかやってゆき、

やがて就職する。

 

だけどやはり上手くいかない。

 

ある工場にいったときは担当の男性に

 

「またコミュ障かよ」

「久々に日本人だと思ったら、コミュ障。安いからまともな奴が来ないのは解っているけど

派遣会社もいい加減にしてほしいよな。こっちの弱みにつけこんでガラクタばかり

送り込みやがって。ここは人間廃棄場じゃないちゅーの。――アンタ、こういう工場は初めて?」

 

などといわれて舌打ちされる。

 

読んでて腹が立ってくるのは、それが現実の世界である光景だからだろう。

 

主人公は耐えるとこまで耐える。

 

だが、やがて爆発する。

モチーフはやはり秋葉原事件で間違いないだろう。

 

若者や弱者がなにか事件を起こすと、「すぐキレる」「我慢をしらない」「ネット依存」と

簡単に査定する人間がいる。

 

だけど、それは違う。

 

彼ら彼女らは、我慢をしらないのではない。

それどころか逆に誰もしらないところで、産まれてきてから長い間ずっと我慢をしてきた

のだ。

 

耐えて耐えて、それでもやはり抜きどころのないガスは爆発するしか行き場がなかった。

 

作家の島田雅彦がSNSでこんなことを呟いていた。

 

オトナや上の人たちのいうことにだけ従ってたら殺される。

でも、自分で考えて行動して失敗したら自己責任だといわれる。

子供たちは気をつけろ……と。

 

子供だけじゃない。

オトナの世界も同じ。

 

 

嶽本野ばら氏のこの一冊はぜひ、多くの人に読んでおすすめしたい。