フォークダンスDE成子坂 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

二十歳くらいのとき、バイト先の仲間に誘われて一緒に渋谷に

遊びにいった。

仲間は地方からでてきて間もない人間だったので渋谷で買い物

したかったらしい。

 

改札をでて駅前広場にでると、テントがあって人だかりができていた。

気になって、「ちょっと見てゆこうか」という話になり、そのテントのほうに

いってみた。

 

エイズにかんする街角チャリティイベントをやっていた。

ステージでMCをやっていたのは、まだそんな有名でないころの極楽とんぼの

ふたり。

このころはまだ、めちゃイケがはじまっていなかったと思われ、地方からでてきた

友人は極楽とんぼをしらず「誰?」とオレに訊いてきて、説明した記憶がある。

オレのほうもなんとなくその存在はしっていた程度だった。

 

流れとしては、極楽とんぼのふたりが司会で、さまざまな有名人にステージに

登場してもらう。

そこで私物を出品してもらい、その場に集まっている人にオークション方式で

競り落としてもらい、そのお金をチャリティー寄付にまわすという企画だった。

 

林家三平(当時いっ平)や競馬のオカベ騎手などがゲストで登場した。

ステージに登場したとき、一番見物客がざわついたのは先日亡くなった西城秀樹

だった。

たしかジャケットを出品して、どこかの人が高額で競り落とした。

 

あと、もうひとり。

オリンピックのメダリストの方も登場した。

当時なにかと話題になった人。

名誉のためはっきりと名前は書かないが、ヒントとしては「公衆電話」(笑)

 

その人がオリンピック?でもらった記念の盾みたいなものを出品したのだ。

 

本人希望で3000円からのスタートだったが、あまり大衆の関心を惹かなかった

ようで、誰ひとり手をあげない……

 

極楽とんぼのふたりもそこでメダリストの方に気遣って、我々に後押しするよう、

「どうですか!お客さん! これ、けっこう貴重なモノですよ!」

というが、それでも誰も手をあげない。

 

一番いづらかったのはメダリストの方だろうが、司会のふたりやオレら観客の

間でもなんともいえない気まずくて微妙な空気が1分ほど流れだした。

(この気まずさ、なんとなくおわかりですよね?)

 

その時、オレらギャラリーの一番後ろのほうからその沈黙を突き破ってくれる

「え!3000円!? じゃあオレそれ買うわ!!」

という一声が響いた。

みんながいっせいに振り向いた。

 

そこで極楽とんぼのふたりがその声のほうに向かい、

「あれ!? フォークダンスの村田じゃん!!」

「どうした村田! おまえ、なんでここにいる?まぁちょっとこいよ!」

という。

 

ギャラリーの間をかき分けて、オレらのすぐ横を通ってステージにあがった

その人間は当時放送されていたボキャブラ天国でよく見ていた顔だった。

 

お笑いコンビ「フォークダンスDE成子坂」の片割れ、村田渚である。

 

ステージにあがり、極楽とんぼとのやりとりを聞いていると、

たまたま渋谷にきて通りかかったら、なにかやってるのに気づいて、

見ていたら、それが欲しいと思ったから手をあげた、とのことだったが……

 

まあ、はっきりいってしまえばおそらく保険としての仕込みだろう。

 

もし、誰も挙手しなかった場合の出品者の名誉を考えて、開催者側がまだ

そこまでブレイクしていなかったフォークダンス~の村田を挙手人員として

配置しておいたのだと思われる。

 

それはそれでイベントごとにおける当然の処置だと思うので文句はないが、

ボキャ天好きだったオレからすれば、そこでフォークダンス~の村田を見ることが

できたのは、ちょっと収穫だったかもしれない。

※一緒にいた友人はフォークダンス~も村田もしらなかったが。

 

 

「フォークダンスDE成子坂」は桶田敬太郎と村田渚のふたりで結成されていた

漫才コンビ。

 

若者の間でブレイクしたキッカケはやはりボキャブラ天国だと思う。

有名曲『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』の「あんた、あのコのなんなのさ」という

歌詞の部分をボキャぶって、

 

「あんた……あの香ばしさ」

というナンセンスネタがバカウケした。

 

その後も同じシリーズで、

「パンダ……あの頃ナンバーワン」

というネタを繰り出し、それが前回に続き、当時のパネラーや女子高生などに

ヒットした記憶が強い。

 

それ以降も同じ曲のシリーズで毎回スタジオは爆笑だったんだけど、

オレ個人的にはちょっとあまり3作目以降のネタは受け入れられなかった。

 

3作目か4作目かが、2作目の「パンダ……あの頃ナンバーワン」の流れを

くんで、「パンダ……笹を食う」というネタだった。

 

例によってスタジオはバカウケだったが、でもこのネタって言葉的には

「あんた」と「パンダ」しか、かかっていない。

「笹を食う」っていうのは前ネタのパンダの流れありきの笑いであり、元歌の

「あのコのなんなのさ」とは言葉遊び的にまったく異なるのである。

 

なので2作目の「パンダ、あの頃ナンバーワン」までは全体的にボキャぶっていた

から好きだったけど、後半パンダありきのネタに舵を切り始めたあたりから

フォークダンス~はあまり好きじゃなかった。

 

でもシリーズ最後で意表をつき、パンダじゃないところでネタにしてきたのは

笑えた。

 

でも冷静に受け止めてみれば、ボキャブラはあくまで番組企画のダジャレ。

芸人さんたちの本当のフィールドは漫才やコントである。

 

きちんとした数分間のネタを披露する演芸番組で「フォークダンスDE成子坂」の

コントを見たことがあるが、独特でとても面白かった。

ボキャ天のパンダネタでひっぱったときはあまり好きじゃなかったが、コントを

見たらやっぱりこのふたりは才能すごいなあと思い、また好きになった。

 

背が高いボケのほうの桶田敬太郎が役者転向を希望したんだっけかな。

コンビはやがて解散。

桶田のほうは今も構成など番組に関わる仕事をしているとか。

 

村田のほうはまた新しいコンビを結成したようだったけど、ある日いきなり

病死したというニュースが飛び込んできて衝撃的だった。

まだ35歳。

 

同じくらいのとき、たしかカンニングの中島も35歳で亡くなった。

このあたりは中堅芸人に不幸が舞い込んだ季節というイメージが拭えない。

 

 

そうそう、ボキャ天の話に戻るが、あの番組には出演する芸人にそれぞれ

キャッチコピーがつけられている。

後に開始されるエンタの神様の布石みたいなものだ。

 

「フォークダンスDE成子坂」のふたりは女子高生から人気があったことで

当初のキャッチは『コギャル殺し』だった。

 

ボキャ天が放送されていたとき、まだ二十歳前後だった当時のオレも

恥ずかしながら誰かと組んで芸人になりたいと、ちょっとだけ夢見ていた。

 

人気や知名度を得るためには、万人に受けようとするよりもフォークダンス~

がコギャルにターゲットを絞ったようなキャッチをつけたよう、まずはターゲットジャンルを

絞って、そこから芸風やキャラを作ったほうがいいかと考えた。

 

そのとき、同じくお笑い好きの先輩がバイト先にいたのでまだ二十歳前後の若い

オレはこんなことをいってみた。

 

 

「『フォークダンスDE成子坂』って、キャッチが『コギャル殺し』じゃないですか。

だからオレもデビューしたら、まずはそういうふうに女性をターゲットに絞って、

さらにその女性の中でも射止めたいジャンルや職業を絞り込み、フォークダンスみたいに

キャッチコピーにして名前を広めてゆこうかと思ってるんですよ!なんでもいいんです!

『バスガイド殺し』でも『女教師殺し』でも『アイドル殺し』でも。

じゃあそーゆーことで、とりあえずオレは『ホステス殺し』で……

 

って、それは福田和子じゃないかいっ!!(自己ツッコミ) 」

 

 

 

オレのこの言葉における先輩の返答。

 

「う~ん……面白いっちゃ面白いんだけどなあ……。

オチに持ってくまでのしゃべりの前フリが長いんだよ、おまえは。

なんでそこをもっと短くまとめてパッとオチに運ぶ技術がないのかなあ……」

 

チーン。

ごもっともなゴシテキ。

 

今の若いコは福田和子も、もうわからんだろうな。

 

おしまい