真梨幸子「6月31日の同窓会」 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

6月31日の同窓会 6月31日の同窓会
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スキー競技には興味も知識もないけれど、その大会が終了してからしばらくたった

あと、話題になった国民的ともいえる人気選手のひとりがこんな告白をしていた。

 

自分がジャンプに失敗したことから、そのあとにジャンプする同じ日本チームの

メンバーにたいして心の中で、正直「失敗しろ!」と思っていたと。

 

それにたいする世間一般の御立派な意見としては、

「スポーツマンシップに反する」

「チームワークを乱す考えだ」

「みみっちい」

というのが多数を占めるところだと思う。

 

だけど、オレは逆に好印象を持った。

スポーツをする人間の中にもそういった人間臭さと正直さを持った人がいるんだなと

なみならぬ関心を抱きながらインタビューを聞いていた。

 

オレが誤解していなければ、つまりはこういうことだと思う。

 

あとから飛ぶ選手も失敗すれば、チーム成績としては致命的にはなるが、観ている

人間たちの中で、自分個人の悪いイメージと責任はいくらか削減される、そして自分も

多少楽になる、と。

 

誤解をおそれずにものすごく極端にいいあらわせば、

「チームとして勝てなくとも、チームの中で自分が一番悪い成績じゃなければいい」

といえる。

 

人間らしくて正直でいいじゃないか、うん。

競技中に限らず、それが終わったあともこうやって素直な自分をさらけだすことこそ

本当のスポーツマンシップだとオレ個人としては思う。

 

もう何年も前に、蓮舫が「2位じゃダメなんですか?」と事業仕分けで発言し議論を

呼んだ。

 

今回は政治テーマじゃないし、ここで蓮舫についての好き嫌いや発言是非を問うことは

しないが、やはり世の中にはどんなことにおいても「1位を目指すべきだ」と強く語って

譲らない人は多い。

 

考え方は人それぞれなので、そういう考え方は否定しない。

 

ただひとつ。

 

スポーツにおいても芸術においても、なにごとも清々しい精神でまとめようとする人が

いるけど、オレの考え方では

「なにがなんでも1位を目指す」

と、

「チームの勝利(選出)が最優先」

という思想はまず共存しない。

 

勝利チームのメンバーの心の中にそのふたつの要素が入っていればもっとも美しいかも

しれないが、それはほぼ……あくまでほぼだがないと考えられる。

あるのはどちらかひとつだ。

そうでなければ方程式は成り立たない。

 

「1位になりたい」ということは、いいかえれば「1位以外にはなりたくない」ということである。

そして記録や順位というものは、敵チームに限らず、同じフィールドの中に存在する味方含む

すべての選手に発生する。

 

真の「1位になりたい」という心意気を持っている人間は、敵チームに限らず味方の中でも

1位になりたいという願望を持っているはず。あるいはもっていても自分に嘘をついて

ごまかしているか。

 

いいかえれば、「1位以外になりたくない」のであれば、敵チームに負けてもらうだけでなく

自分のチームの中でも他のメンバーの活躍は自分以下であってもらわないと困るはずだ。

つまり、冒頭で書いたスキー選手の例である。

 

スポーツではもっとも活躍した人間に送られるMVPというのがある。

別のいい方すれば、その大会で「一番注目浴びた選手」へおくる賞である。

 

一番を目指せ、ということはそのMVPを目指せ、ということにも当てはまる。

だとしたら、結果的にチームが勝ったとしても自分以外のチームメイトが自分よりも活躍されたら

いけないわけである。

 

それを良しとするのであれば……

その選手は「チームの勝利を最優先させている」けれど、「1位(1番)は目指す」ことはしてない

のを意味するというのがオレの哲学である。

 

結果論といえば結果論。

だけど、チームメイトがMVPをとったことにたいしてそこで喜んだり祝福するのでなはなく

悔しがらなければ、それは1位を目指していなかったことを証明する。

 

綺麗事抜きでオレは冒頭に書いたスキー選手の気持ちよくわかる。

オレも中学校のバドミントン部のときとか、自分が負けたときは、他の同級生にも負けて

欲しいと思ったことあった。

揃って負ければ、取り残された気持ちにはならないし、その部活の中で自分が一番弱いと

いう気分にならないで済む。

 

自分が勝ったときには、仲間にも勝って欲しいとは思った。

ただし、オレほど輝かない程度に(笑)

 

それについて人間のスケールが小さいとかいう声があれば否定はしない。

潔く認めるまで。

 

「勝利」とか「1番」という言葉は綺麗かもしれないけど、その言葉の裏側には

「人間特有の嫉妬」があるとオレは思っている。

 

いや、人間特有でもないかもしれない。

動物に例えればしっくりくるかも。

たとえばサル山のボス争いや、動物や昆虫のメスの奪い合いや縄張り争いなど。

 

同じ種の世界だけど、あのサルだけにはその座を奪いたくない。

あのオスのカブトムシだけには、このメスをとられたくない。

そのために自分の戦い自分のプライドのため力をアピールする。

その戦いの世界もある種の嫉妬があってこそ勃発する。

 

競争やスポーツには密かな嫉妬というコンプレックス的な背景が存在するからこそ、

その戦いに勝ったとき克服した意味で人は酔いしれることができるのだ。

 

いやいや、そういう嫉妬を背景とした光景はスポーツチーム内やサル山だけではない。

 

もっと身近な例えでいえば、職場の部署や学校のクラス……

 

そう、小・中・高校なんてまさにその代表的な舞台といえるかもしれない。

 

教師が筆で「助け合うクラス」とか「みんな、なかよし」とか書いた紙が黒板の上に

張られていたりするけど、やはりもっとも多感で競争心や嫉妬心が旺盛なその頃の

年代にはクラス内で渦巻くモノが存在するのは避けられない。

 

「自分が一番でありたい。だから他のクラスメートに活躍されたら困る」

 

そんな黒い渦。

 

真梨幸子の「6月31日の同窓会」というイヤミスを読むと、仲の良いクラスの裏側に

見え隠れする人間の嫉妬を妙にリアルに描いているなと感じた。

 

 

――

「さて、同窓会を下記のとおり開催することとなりました。……
日時 六月三十一日 場所 ホテルニューヘブン」――

神奈川県の伝統ある私立女子校・蘭聖学園の卒業生・柏木陽奈子(28歳)のもとに、
突然届いた同窓会の案内。
「あれ、6月に31日ってあったっけ……」と案内を受け取った後、
陽奈子は謎の死を遂げる。
学園卒業生の連続死を調べている弁護士・松川凛子は、死亡した女性が
皆同じ案内状を受け取ったことを突き止めるも、自身にも案内状が届いて――

『殺人鬼フジコの衝動』『人生相談。』『5人のジュンコ』など
話題作を次々と世に送り出す「イヤミスの女王」が、
自身のかさぶたを剥がしながらダーク過ぎる女の園を描く、
ノンストップ「女子校イヤミステリー」!

(amazonより引用)

 

 

物語は柏木陽奈子を皮切りに、当時の高校の同級生たちごとの告白やエピソードで

つながれてゆく。

 

どちらが先かはわからないが構成は湊かなえの作品に似ていなくもない。

 

章ごとにいろんな人物が登場して、時間もいったりきたりするミステリーはオレも得意な

ほうではないが、この作品においては理解しやすく読みやすかった。

 

結末とは関係ない登場人物のつぶやき的な文章もなかなか読みごたえがあり引きこまれる。

同窓会の一番の御馳走は不参加者の噂話で、これがすこぶる美味しいのだが、自分が

不参加のときに自分の噂話がつまみにされていると思うと、ゾクっとするという箇所もとても

リアルだ。

 

また人間が人生で2択をする場面に遭遇した場合、その分岐点には必ず悪魔がいて、

迷っている人にあえて間違えた選択をさせる。という文章にも妙に納得。

 

「悪魔って、正しく美しい言葉を使って、人を惑わせるんですって」

「地獄への道は、‘善意’で舗装されている……」

 

わかるなあ。

リアルだなあ。

 

オレ、毎回分岐点で悪魔に騙されているような気がする。

もちろん人間にもだけど。

 

 

気がつくとどんどん読み進めていた1冊。

表紙のイラストの静かな不気味さもいい。