ごんぎつねたちの黄昏 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

オレは数字と運動が好きじゃない。

だから小学校と中学校では、数学、科学、体育の授業がとにかく苦痛だった。

 

基本的に学校の授業全体が嫌いだったが、そのなかでも比較的面白いと

思えたのは国語や英語や道徳だった。

 

とくに国語にかんしては、すごく面白いとは思わないまでも、苦痛ではなかった。

 

それはやはり今でも印象に残る物語などが教科書に掲載されていた影響が大きい。

 

「ごんぎつね」も、その中のひとつである。

 

作者は新美南吉。

 

18歳でごんぎつねを世に放ったといったその世界観は驚きだった。

そして、29歳の若さで亡くなったというのもまた驚きである。

 

物語の概要をまだ真正面から受け止めることしかしらない子供だった当時、

ごんぎつね絶命という結末には、ただひたすら涙を流すだけだった。

 

その感覚は今でも基本変わっていない。

 

だけど、すこし前に一部で「なにも可哀想じゃない。自業自得」という論がでてきた。

 

物語や文章の演出上、たしかにごん(きつね)は可愛そうに映るが、自業自得という話が

でることにも納得はゆく。

たしかにきっかけを作ったのはごん本人なのだから。

 

でも、オレらは当時の物語の表面からにじみ出てくる感情の扇情をあまりにダイレクトに

受け止めてしまっていただけに、正しいか間違っているかはともかくそういう論がでてきた

というのは一つの大きい点なのかもしれない。

 

昔話作家や童話作家はたんなる感動屋や勧善懲悪屋じゃないと思う。

今まで存在したそういう偉大な人間たちは、作家にして哲学者でもあったと考えられるのだ。

 

彼らが教科書というフィルターを通して、子供たちだけでなく世の人間たちに

仕掛けてきたかちかち山のたぬきやサルカニ合戦にサルみたいに、

 

「悪いことをしたら、自分にかえってくるよ」

 

という呼びかけは実はフェイクであって、本当は

 

「教科書に載っていたりする話だからって、オレの創作をそのまま良い話として受け止めてないか?」

 

といった世の人間にたいする俯瞰力のテストなんじゃないかって考える時がある。

 

たとえば、この新美南吉でいえば、本当の狙いは

‘ごんが可哀そうだと泣かせる’

ことではなくて、

‘ごんが可哀そうな流れの演出で描いたオレの狙いにまんまとひっかかってないかと仕掛ける’

ことではないかという裏読み。

 

ごんぎつねだけなのもアレなんで、他の有名な話も例に挙げてみようか。

 

さっきもちょっと例にだした「サルカニ合戦」。

 

いじわるなサルにいじめられたカニが臼やハチや栗を味方につけて、いじめっこのサルを

こらしめるという話だったと記憶している。

 

体の大きさも身体能力も明らかに差のあるサルが弱いカニを一方的にいじめ、そんな弱者の

カニのほうに多数の仲間がついて、サルをこらしめる。

 

いわば代理戦争だ。

 

1対1とはいえ、明らかに能力差のあるカニをいじめていたサルがやっていたことは

誰がみても「弱い者いじめ」である。

 

よって、ボクサーでいえばヘビィ―級の臼だけがカニの代わりとなり、タイマンでサルに戦いを

挑むのならばそれは理になかった代理戦争である。

 

だが……物語をよく見直してみると、サル1匹に対するリベンジは臼やハチや栗が束ねて

連続コンボを繰り出している。

 

サルが悪いヤツには違いないが、流れからするとこれは「弱い者いじめ」にたいして

「集団いじめ」で返しているのではないかという捉え方もできる。

 

 

それとあとは「うさぎとカメ」の話。

 

ノロマなカメと、そのカメをバカにしていたウサギが、ある山の上まで競争する話。

 

カメにのろさを甘く見て油断したウサギが山の途中で昼寝してしまい、そのすきにカメが

ウサギを追い抜いて、先に山頂へ到着するという有名な話である。

 

ついこの前に連載が終了した人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の中の1話に、

こんなシーンがあったのが印象深い。

 

仕事をサボってばかりの主人公である両津勘吉巡査長に、上司であるカタブツの大原部長が

「おまえは遊んでばかりいる『ウサギとカメ』の『カメ』」だ!!

と指摘する。

 

だが、口達者な両津はこう反論する。

 

「それならば部長、そのカメはどうしてウサギを起こして正々堂々を勝負をしなかったのですか?」

と。

 

その一言に部長は思わず「ウッ…」と言葉を詰まらせる。

 

そんな部長にたいして、両津勘吉はさらに口撃を続ける。

 

「ほら!あなたはカメだ! いうだけいっておいて自分に都合が悪くなるとすぐにそうやって

黙って自分の中に閉じこもる! あなたこそ自己中心的なカメだ!」

と。

 

おまけにもうひとつあげれば、桃太郎。

 

鬼はたしかに悪いやつかもしれない。

 

だけど、物語を冷静に振り返ってみると、すくなくとも原作上ではお爺さんやお婆さんが住んでいる

土地にきてモノを奪っているわけではなく、あくまで自分たちの島で金銀財宝をかくまっているわけ

である。

 

まあ、過去にどこからか奪ってきたものではあるのかもしれいないが、それは確認しようが

ないので、それをふまえたうえでいうと、桃太郎がおこなったことは「侵略武力行使」と、いえない

でもない。

 

鬼目線でいえば、いきなり名前もしらないガキとワンコとエテ公とトリがどこからかやってきて

暴れたと思ったら、宝を奪って帰っていったわけだから(笑)

 

いやいや、オレも基本綺麗事は大嫌いだし、これまでの人生どちらかというまでもなく、やはり

弱い者寄りのステージを歩んできた人間だから、サルカニ合戦にしても桃太郎にしても、やはり

権力の具体的象徴ともいえる強者(サルカニのサル、桃太郎の鬼など)が、仕返しにあって、

こらしめられているオチは痛快&爽快なのは間違いない。

 

だけど、今回冒頭で書いた「ごんぎつね」の例などをあげて考えてみると、、日本の童話作家

が本当に狙っていたのは、「読者を泣かすこと、感動させること」ではなく、

「物語を表面だけで受け止めず、自分の価値観をしっかり回転させて考えているか?」といった

国民総テストのように、今になって考えられてきた。

 

 

これまで国語の教科書や、教えられてきた童話で知った話。

 

その話で純粋に感動してしまっていたら、もしかしたらそれはそれらの話をつくった作者たちの

純粋な感情テストのひっかけ問題にかかってしまったのかもしれない。

 

一見感動するようなストーリーだけれど、よくよく読んでみると、「ん? これ、ちょっと……」

って思うことは意外とあると思う。

 

それはおとぎ話でも昔話でも……そして今巷にあふれている経営者のサクセスストーリーも

同じ。

 

渡辺美樹の成功論もしかりだが、かの松下幸之助や本田宗一郎の成功論もすべてがホワイト

ではない。

 

もちろん、一般人に比べて寝る時間もなくいろいろ思考したり苦労したりしたにはすごいと思うが

彼らを尊敬する人たちっていうのは、彼らのいい部分しか周囲に発信しようとしない。

 

それはなぜかとおうと。本人たちが書いた成功論しか読んでいないからだ。

 

いや、本当に分析力や哲学力がある人間ならば、少なからずそこからある程度の矛盾なども

コーヒーのように抽出できるはず。

 

だけど、本田宗一郎がこういってたとか、松下幸之助がこういってたとか、スティーブ・ジョブズが

こういっていたとかってことを、そのまま鵜呑みにして周囲にいう人間っていうのは、ようするに

他人に哲学を研磨するわけでなく、それをそのまま自分の脳みそにスキャンするというか……

 

まあ、哲学にたいしてはその程度のなめた認識なのかなっと断罪している。

 

今回書いたことにかんして、まとめていうと、

有名な話だからとか、昔話だからとか、起業成功者の話だからとか、どん底から這いあがった人の

話だからとか、そういう概念にてすべてが道徳的に素晴らしい話だという前提を持ってきくということは

その原作者たちがさりげなく仕掛けたテストに見事にひっかかっている可能性がある。

 

そうだとしたら、オレもあなたも人の上にたつ人間ではないのかもしれない。

そして、部下を持つべき人間じゃないのかもしれない。

 

と、ごんぎつねがススキの葉の間で人間をあざ笑っているような気もする。