竹宮ゆゆこ「砕け散るところを見せてあげる」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

 

 

 

四コマ漫画の「コボちゃん」。

その中のひとつにこんな四コマがあった。

 

幼稚園で、同じ組のひとりの弱い男の子が、いじめっこふたりにいじめられている場面を

コボちゃんが目撃する。

 

コボちゃんは正義感からその弱い子を助けようと、いじめっこふたりにむかって

「弱い者いじめはやめなよ!!」

と注意した。

 

するとそこで、いじめっこふたりがコボちゃんに矛先を変えてなにかいってくるのではなく、

間でいじめられていた子がコボちゃんにこのようなことをいい放った。

 

「弱い者とはなんだよ! ボクより君のほうが弱いじゃないか!」

 

助けてあげようとしたつもりが、そういういい方されたことで、コボちゃんは激怒。

 

状況は一転して、今度はそこでいじめられていた子とコボちゃんのふたりによる口ゲンカが

勃発し、ふたりのいじめっ子は茫然としながら「なんだ? あれ?」と呟きながら、その場をすたすたと

去ってゆくというオチ。

 

四コマでまとめてストンと落ちたような話だが、いじめられていた子も自分の頭の中では組内における

ヒエラルキーというかピラミッド構成を持っていて、その勢力図においては自分はコボちゃんよりも

上という概念を静かに持っていたのだろう。

 

ただ、助けてあげたつもりのコボちゃんからすれば、ムナクソ悪いのは間違いない。

 

人間はやはり、誰かになにかをしてあげたと思った時、金品のお礼や丁寧な感謝を求めはしなくとも

やはり、笑顔で軽く頭をさげてもらうくらいはしてほしいものだと思う。

 

親しい親しくないの間柄に関係なく、それは人間同士の最低限の礼儀だと思うが、それでも

なにかしてあげた際、「え、なにその反応!?」という状況になることが稀にある。

パッと出てこないわけじゃないが、例をあげるとまた文が長くなるから割愛するが。

 

簡単にいえば、相手のカン違いだったり、相手としてはお礼をいわないといけないと思っていながら

動揺するあまり、言葉が出ずに、ついつい変な視線を向けてしまったりとかいったところだろうか。

 

 

――

死んだのは、二人。その死は、何を残すのか。大学受験を間近に控えた濱田清澄は、ある日、全校集会で一年生の女子生徒がいじめに遭っているのを目撃する。割って入る清澄。だが、彼を待っていたのは、助けたはずの後輩、蔵本玻璃からの「あああああああ!」という絶叫だった。その拒絶の意味は何か。“死んだ二人”とは、誰か。やがて玻璃の素顔とともに、清澄は事件の本質を知る……。小説の新たな煌めきを示す、記念碑的傑作。

(解説文より引用)

 

図書館で背表紙のタイトルに惹かれて借りた1冊。

「砕け散るところを見せてあげる」のストーリーは、清澄という生徒が、いじめにあっている年下の女子生徒を助けたら、そんな声を出されたところからはじまる。

 

表紙のイラストの感じがダメとかいう人もいそうだが、侮ることなかれ。

そこで読むのを撤退するのはもったいないくらい面白かった。

 

いじめを助けたのに、意味不明の絶叫をされたことで、「ヤバいやつ」とかかわっちゃったかな?と

思いながらも、やがて甘いく切ない青春コメディへと発展……と、思いきや、殺人あり事件あり、そして

文章のトリックありと、ここまで笑いとシリアスを上手く融合できるこの女性作者はすごい。

 

メインとして走っている一本の本筋もよく構成されているが、風景描写をかきたてる脇役の登場人物

たちのキャラがまさにクラスに限らず、あらゆるコミュニティーにひとりはいるような「あるある」な

やつら。

 

書いている竹宮サンという人は相当、人間観察が鋭く、それを作品にうまく入れ込んでいる印象。

 

流れの中に登場するクラスメートや教師をリアルに描きつつ、そこにコミカルなツッコミを入れて

読者を笑わせに掛かってくる。

 

「自己啓発とか、自分を変えるとか、○○するだけで金持ちになって愛されて成功して幸せになって

世界には平和が訪れて身長も伸びるし飯もうまい!とか、色々。

うちの担任はその手のやつが大好きなのだ。今年度だけでも俺たちは、置かれた場所で咲いてみたり、嫌われる勇気を持ってみたり、魔法の片づけでときめいてみたり、瞑想、断食、もっと最新のわけのわからないことまで色々やらされた。『あいつは俺たちを使ってなんらかの人体実験をしているのでは?』という説すらあって、担任のノリを恐れる奴も少なくなかった」

……

 

これは文章の一部にあった担任にたいする清澄の心のつぶやき。

ここ最近の風潮をほとんど詰め込んで風刺しながらも、あまり重くならないようなポップな感じで

描いている。面白い。

 

「おまえのやばさはある意味パワーだ。圧倒してやれ」

この言葉もオレにように変人扱いされやすい人種には大きな励ましになった。

 

この話、実は本筋はかなり複雑で、ちょっと悲しい話。

正直いうと、最低2回は読まないとぼんやりとしか流れが理解できないかもしれない。

ここまで記事で書いておいてこんなこというのもヘンだが、今オレがそう(笑)

 

だけど、それでも早いうちに紹介したい1冊だった。

笑い、恋愛、サスペンス、ミステリー、あらゆる要素がバランスよく詰め込まれた作品だった。

 

 

今回のもう1冊。

中原昌也の「悲惨すぎる家なき子の死」

 

 

 

印象的だった文章を一部抜粋、引用。

 

・内容のないつまらない小説のほうが、家族の絆だとか、純愛だとか、そんな現代に存在しない

ものをあたかもあるかのように語る連中よりマシだ。

 

・自分以外の世界に興味のない、他人の痛みを想像することのできない。それでいて

妬みの感情しかない連中はもはや人間ではない。動物ですらない。

一刻も早く全員死んでしまえ。

 

・いま本屋に行けば、「失敗から学ぶ成功学」みたいな本が飛ぶように売れています。

それらすべてに目を通したわけではないのですが、「失敗を経験すればするほどに、次には

大きな成功を収める」みたいな短絡的な論旨のものが、悲しいことに多いようです。

 

・他人の間違いなど気にしている余裕などないのが現実です。

 

……

これらの文章から作品の世界観を想像していただければ幸い。

 

 

え?

また世の中のシステムを否定するような文章ばかり好んで偏って抜粋してるって?

 

いやいや、これらのセリフは作者がいっているのではなくて、作者が書いている物語の中の

主役がつぶやいていることなのだ。

 

新潮社出版部の中瀬ゆかり編集長がこんなひとことをいっていて、おもわず頷いた。

 

‘モノカキはネガティブなほうが、おもしろいものを生み出せる’

 

中原昌也氏も竹宮ゆゆこ氏も、きっとそのタイプだろう。

そして恐縮ながらオレも。

 

オレがこれまでここで書き放ってきた暗黒短編もそのほとんどが救いようのないケシカラン暗い

話だと思う。

 

これをケン74の‘本音’とか‘願望’とかいうテーマで書いたら、おそらく即炎上だろう。

だけど、ひとつの創作として、作品中の人物がいったこととして書くならば、あるエンタメとして

不思議といくらかの人の関心を惹きつけることができる。

 

モノ書きに与えられた特権、それは合法的な「闇とモラル違反」。

 

だから文章を書くという作業は面白く、そしてやめられない(笑)