精神癌 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

すこし前にひとりの女性キャスターが亡くなった。

まだ34歳。

 

それよりちょっと前にどこかの球団に所属していた元プロ野球選手が亡くなったときいた

ばかりだった。38歳。

 

悪いくせなのかどうかわからないが、最近自分よりも若い人が亡くなった場合、気がつくと

頭の中で自然に引き算をしてしまっている。

 

自分の年齢引-亡くなった人の年齢、という引き算。

 

困ったものだ。

 

なんで、こんな引き算をしてしまうんだろうと考えた。

 

自分よりもまだこんなに若いのに可哀想だという同情の度数を勝手に数字でだしたいという

のもあるだろうが、でも本当は心のどこかで、「自分は彼ら彼女らよりもこれだけ長く生きている

ぶんだけありがたい」という想いにすがりたいんじゃないかなとも思えてきた。

 

ナンバーワンよりオンリーワンだとかいうけれど、シビアな話で人は他人と共存する社会で

生きてゆく限り、自分自身をあらゆることにおいて、誰ともまったく比較せずに生きてゆくことは

避けられないのは認めないといけない。

 

百歩譲って、自分自身が気にすることがなかったとしても、周囲の誰かは自分のことを誰かと

比較しては感情を煽ってくるだろう。

「悔しくないのか」とか「もっとつらいやつだってたくさんいる」といってくるだろう。

 

人が他人を比較して、優越感に浸ったり、自分は相手のことを思っているというエゴに浸るという

行動派それはライオンが鹿を捕食したり、蚊が血を吸うことと同じで当然の摂理なのかもしれない。

 

オレの人生から女性キャスターの人生を引いて、でた数字は「8」だった。

 

「8もある」のか、それとも「たった8しかない」のか。

 

それはわからない。

 

生きたくても生きられない人もいるのに、その人より8年も長く生きていて、しかもその数字はまだ

現在進行形。

生きていることに感謝しろ、という声があちこちから聞こえてくるようなその一方で、

8年も長く生きてりゃもういいんじゃない、という声も聞こえてこないでもない。

 

そんなことをぼんやりと考えていたら、つい先日、埼玉西武ライオンズの投手コーチもまた

急死したというニュースがとびこんできて衝撃をうけた。

 

現役時代からよく知っていて、球場で投げている姿も見たことある。

42歳。

同年代だ。

冗談にもできない。

亡くなる前日まで本当に普通だったというから笑えない。

 

よく「死の足音がしのびよる」だとかいう表現を耳にするけれど、死には足音などないのだろう。

 

それは、きっと「ダルマさんがころんだ」で自分が鬼をやって、振り返った時にだんだんと近づいている

いる者のように静かに徐々に近づいてきて、ある時振り向いたらすぐ目の前にいるというイメージ。

 

ただ、死に恐怖を感じているうちは安心だ。

 

恐怖すらしなくなった時が本当の恐怖。

喪失感を感じることができるうちはまだ安全装置が働いていると思っていい。

 

それはまだわずかであったとしても、自分の中にある希望というものが絶望の動きを止めようと

稼働している証拠であるといえる。

 

絶望と失望が接近して出逢ってしまうと、人は喪失感という感情さえも喪失する。

そして恐怖という感覚すらも奪われてなくなる。

 

道端にわざと1万円札を落として、そのまま帰る。

 

それから1日中、後悔したりモゾモゾと落ち着かなかったりしたり、拾ってふところに入れて

喜んでいるやつの憎たらしい顔を想像して腹が立つならば、しばらくは安全だ。

明日生きるつもりのない人間にとって、1万円札一枚なんてどうでもいい存在なのだから。

 

でも、そこでクヨクヨするようなのであれば、なんだかんだ不満をいいながら、まだ世の中に

すがりつきたいと思っているのだ。

 

だからといって、油断はしてはいけない。

 

絶望は修学旅行のバスの中でいきなり襲ってくる腹痛とよく似ている。

 

第一波をなんとか耐えて乗り切ったかと思って、気を抜いたころに勢いを2倍に増しておそって

くる。それが絶望というものなのだ。

 

しかし思い返してみれば有名人の場合、スポーツで体や精神を鍛えていたり、

仕事や私生活が充実してたりする人たちが不思議と急死や病死していて、テレビで映る遺影などを

見てもわかるようにそれこそいつも明るく笑っている人たちが比較的若くして亡くなっているように思えなくもない。飯島愛もそうだし、経済アナリストの金子氏もそうだ。

 

その一方、どちらかというと線が細く病弱そうで、性格的にも内向的な有名人が若くしてなくなった

という情報はあまり聞かない気がする。

 

なんだろうか。

歪んだ思想とか希望とかでは決してなく、純粋に隠された運命のバランスがあるのかもしれないと

感じてしまうオレがいる。

 

才能に恵まれて、人生や仕事を明るく楽しめた人はそのぶんの対価として、寿命を短くされた。

その一方、不器用で不健康で人生を楽しめない人は、その保証として寿命だけは長く与えられた。

リストラされて家を失ったホームレスの人たちは、けっこう劣悪な環境の中でまともな栄養もとって

いないのにしっかり長く生きている印象がある。

 

でも、こういってしまうと生涯苦労しただけで報われず亡くなられた方を批判するふうに

捉えられてしまうかもしれないし、楽しんで長く生きている人間だっているといわれるかもしれない。

あくまで割合的なもので、ケースバイケースだということはここで断っておく。

 

 

わからない。

でも、この理論だとオレは長生きしそうな気がする。

 

「いつもいつも死にたいと思いながらもまだ生きている。それだけが愛なのだ」

これはカフカの残した言葉。

 

人間なんてみんなそんなものだ。

 

人の視線や社会の体裁なんて気にするなと人に説教したり、自分に言いきかせたりするわりには

自分が前向きな人間だと外に向けてやけに発信したがる面倒な生命体が人間というもの。

なんだかんだいっても、他人の目を気にせずに生きてない人間なんていないのだ。

 

それをしっかりと認めて自覚すれば、生きてゆくのもいくらかラクになるだろう。

 

ただ、気にすることは認めてもあらゆる言葉に惑わされてはいけない。

 

人の世を動物の世界に例えて「弱肉強食は当然の摂理」と唱える人間は多い。

 

でも、それをいうのはライオンとして生まれてきた者ばかりである。

リスやウサギが「弱肉強食はしょうがない」と冷静にいっているのをきいたことがあるか

よく思い出してほしい。

 

自分がライオンや虎に生まれてきたことを当然と思いこみ、当たり前のようにそういう

エゴを口にする者の言葉に微塵の疑問も抱かず鵜呑みにするようであればそこは

感覚の修正をしたほうがよい。

 

だめだ。

今日は思想がいつにもましてスクランブルになって、わけわからなくなってきてしまった。

 

 

 

ここまでいろいろ考えてしまうオレは、肉体的には今のところ健康だけれど精神は

ちょっと深刻で影があるかもしれない。

 

でも、ここまで書きたいことを文章にして書いている気力があるからまだ大丈夫だろう。

 

亡くなった人から、たくさんのことを教わったという声はよく耳にする。

優しさだとか愛情だとか。

 

でも、大事なのはいくつ教わったかじゃない。

教わっただけじゃなく、その教わったことをいくつ周囲の人にたいして実践できたかだ。

100個教わったとしても、そのうちひとつも他人にしてあげれてないんだったら、まだ

自分で考えたたったひとつのことを確実にしてあげられる人のほうが立派だ。

 

ありふれた言葉になってしまうが最後に改めて小林麻央さんと西武ライオンズ森慎二コーチの

おふたりのご冥福をお祈りしたい。

 

 

 

さて、明日は軽い話題を書こうか。