岸辺露伴は動かない | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

日本人というものは実にわかりやすい。


あらゆる場所でたくさんの人間が、


「仕事を楽しもうという考えを持たないとダメだ

「つまらない仕事でもその中に面白さを見出して、前向きに楽しもうと思わないと!」


とかいっているのをよく聞くが、朝の通勤電車の中を見回してみるとその多くがまるで

戦地にでも輸送されるような憂鬱な疲れた顔をしていて、誰ひとり、これから始まる

一日を楽しもうと心弾ませている顔をしていない。


そう考えると早朝から9時くらいまでの電車という空間は人間の‘もっとも正直な心境’

が露骨に浮き出る時間帯かもしれない。

そういった人間観察的視点で見ると、面白いかもしれない。


どんなに早い時間帯であっても、山登り用のリュックを背負った集団はみんな明るい顔を

しているし、イベントに出かけるような若者は楽しそうな顔をしている。


人という生き物は、人前にでると自分の立場や印象を守るため、表情やポジティブ発言で

自分を偽る生き物だ。

その人がその日一日の仕事生活を本当に楽しもうとしているかを見極めるには、朝の通勤

電車内の表情を観るのが一番わかりやすいかもしれない。


しかし、朝の通勤に限らずだが、毎日電車に乗って、周囲に座っているくたびれた顔を

見るたびに、それぞれ全く異なるライフがこれから始まるのだなあと思ってしまう。


乗車している間は同じ駅を通過し、同じα波に揺られ、同じアナウンスを聞くが、それぞれが

自分の下車する駅で降りると、そこからはまったく違うその人間だけのシーンと時間の流れが

始まるのだ。


ものすごくハードな職場での一日を開始する者もいれば、その日は休日で知り合いと過ごす

者もいるだろう。

オレと同じシーンを共有するのは電車の中にいるときだけ。


生きている人間の数だけ、人生がある。


「スピンオフ」――

この言葉をご存じの方も多いと思われる。

漫画や映画などに登場する脇役やサブキャラが主人公となって扱われる本作とは別の

作品である。


通勤電車や遊びに出かけた繁華街など、あらゆる場所にいってたくさんの人を見るたびに

この日本だけでも「ひとりの主役」がいて「1億3000万のスピンオフ」があるのだなと思うこと

がある。


人は誰でもこの世に生まれた瞬間に「自分の人生」という物語の主人公となる。


お芝居や舞台と違って、どんなに堕落しても、どんなに無能でも、どんなに人望がなくとも

終身主人公が保証されている。


だが、その物語(人生)は決して明るいものだとか、愉快なものだとかは限らない。

とてつもなく深く暗い物語かもしれない。


終身主人公のデメリットとしては、そういった物語だったとしても、その役を降板したり

誰か代役をたてることはできないというのがある。


ある意味ですべての人間が強制主人公になってしまうのだ。


主人公がいるのだから、当然その物語にはたくさんの登場キャラも存在する。


それはみなさんの身の回りにいる自分以外の人間すべてである。


ものすごく当たり前のことなのだが、自分が自分である以上、周囲にいる人間に

どんなすごくて立派なやつがいたとしても、そいつはあなたの物語の主人公には

なることはできないのだ。


これってよく考えてみると、とても面白い。


たとえば、オレのまわりでも、オレより偏差値がずっと高いやつ、オレより遙かに運動神経が

良いやつ、オレなんかよりもずっと男前で女性にモテまくっているやつなどいろんなやつが

存在するのだけれど、どんなにすごい才能やルックス、そして貯金などを持っていたとしても

そいつはオレの物語(人生)の主人公には永遠になることができないのだ。


同様に、オレも自分より劣っているやつがいたとして、そいつの物語の主人公になることは

できない。


オレは自分の物語の主人公をそいつらに奪われることなく、主人公でいられるけれど、

そいつらもそいつらで、誰から主人公の座を奪われる心配もなく、自分の物語の主人公

ではいられるわけだ。


人それぞれ、自分の人生は自分が主役。


わかりやすくいえば、自分以外の他人がおこす活動とかはすべて自分の人生のスピンオフ

みたいなモノなのじゃないかと? そういうこと。


それだけいってしまうと、まるで自分が一番エライといっているふうに聞こえてしまい、

誤解を招くかもしれない。



だが、それは同時にオレがどんなに立派な功績を残したり、歴史に名を刻むようなことを

したとしても、他人の物語(人生)のなかにおいては、オレの存在などその人の物語の

スピンオフにしかならないという謙虚な考え方でもあるのだ。


その人の物語に登場するケンという主役でもなんでもない脇役が自分の物語とはまったく

別の枠で行ったひとつのエピソードに過ぎないということ。


スピンオフ的なキャラが本編の主人公にたいして、ちょっとした影響や転機を与えるという

流れは物語りに波をつくって盛り上げる意味でありだと思う。



だけど、スピンオフのキャラが本編の筋書きを破壊して潰したり、主人公の存在を

完全否定することはルール違反だとオレは思っている。



オレは自分の存在が他人にとってはたかがスピンオフであるとわきまえているので、

主人公である者にたいして必要以上に踏み込んだ人格否定や思考批判はしない。


同時にオレもオレの人生の主役であるだけに、立場をわきまえないスピンオフ人物

がオレの生き方や考え方を変えようとしてきたならば、強く批判させていただく考えている。



ちょっとアツくスピンオフ論を語ってしまったが、ここ最近はカルチャー面でもそういった

スピンオフが目立つようになってきた。



昨日書いたラーメン記事の「紅BLACK」。

そこで紹介したBLACKラーメンも、もともと本店のほうで期間限定で出されていたメニュー

を通年化して扱う店としてオープンしたから、いってみれば店自体が「紅のメニュー」の

スピンオフ的なモノ。


先日、金曜ロードショーで放送されていたジブリ映画「猫の恩返し」もスピンオフだ。

別のジブリ映画「耳をすませば」の作品中で主人公の女の子、月島雫が書いていた

設定の小説をそのまま作品化したモノ。


懐かしいところではゆでたまご原作の「キン肉マン」から、「闘将!拉麺男(たたかえ、ラーメンマン)」がスピンオフ作品として登場し、人気を得た。


その他にもまだまだたくさんのスピンオフ作品が世に溢れている。


作品によっては本編での主人公が、逆にチョイ役で顔を出したりしている面白さが

スピンオフの醍醐味。



この前に購入した荒木飛呂彦の漫画、

『岸辺露伴は動かない』

もスピンオフである。


岸辺露伴は動かない (ジャンプコミックス)/集英社
¥453
Amazon.co.jp


岸辺露伴というのは「ジョジョの奇妙な冒険・第4部」に登場する漫画家。


――

杜王町在住の人気漫画家・岸辺露伴。

好奇心に溢れ、リアリティを追求する彼が、さまざまな取材先で体験した恐怖のエピソード

とは…!?

「懺悔室」

「六壁坂」

「富豪村」

「密猟海岸」

「岸辺露伴 グッチへ行く」 の5編を収録

(裏表紙より引用)

荒木飛呂彦の描く作品に登場するキャラは全員個性があり、うすっぺらいのがいない。


この岸辺露伴もどこかハナにつき、クセが強いが悪人ではない。


そして全体的に素晴らしい世界感と画力。

ロマンホラー芸術である。