白石一文「この世の全部を敵に回して」 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

この世の全部を敵に回して (小学館文庫)/小学館
¥473
Amazon.co.jp


このコラムではそれなりに元気あるように書いているが、考えることがいろいろあって、

正直精神的にはあまりすぐれない。


だから原稿の進行も停滞気味だった。


そんな状態だったのだが、先日電話で仲の良い先輩と話した際、


「オレはそんな状態である今がチャンスだと思う。小説家とか芸術家って、だいたい

どこか病んでる人が多いじゃん。だから、今みたいな状態の時こそ、無理してでも書けば

ケンはすごいモノを書けるんじゃないか!?」


それはとても嬉しい助言だった。

なるほど、というわけでムリして執筆を継続し始めた(笑)



オレが能力を爆発させることができるかどうかは別として、イカレタことを想像する力は

他にないモノやオリジナルを生み出すうえで絶対必要なことだと思う。誰に限らずだ。


ただ、内容や程度によっては実行に移してはいけないというだけ。想像止め。


そういうことではいろんな作家サンのエッセイとか読んで、「あ、オレと似たようなひねくれた

こと考えている人もやっぱりいた!」と感動することもある。


想像力だけでなく、既存の事象における哲学も多少ヤバかったり、ひねくれてる人間のほうが

脳みそが柔軟ではないだろうか。


当然といえば当然なんだけど、人間はやはり何かを哲学するにあたって‘自分の立場’を

定点として考えてゆく。


それを一度リセットして人間界を俯瞰してみたほうが、真実に近づける可能性があるんじゃないかとオレは思い始めた。

モラルがどうのこうのとか、自分がそれをされたら嫌に思わないのかとかいった論はいったん取り払っての俯瞰だ。



その「俯瞰」というのを前提として、ここからの文章を読んでいただければ幸い。


いきなりだが、現代に「特攻」というものがあるとすれば何を想像されるだろうか。

戦時中じゃあるまいし、ゼロ戦や人間魚雷なんてものは当然ない。


オレは誰かに恨みを持って決行した「自殺」というものがソレではないかって気がする。


その場合、特攻といっても軍艦に突っ込むゼロ戦のように、相手の体に向かってビルから

飛び降りるとかいう意味ではない。


死に方はどうであれ、自分の命をひとつの爆弾としてにっくき相手に「罪のないひとりの人間を死に追いやった」という汚点と重い十字架をを与えるという意味での特攻だ。


でもオレはその特攻は絶対したくない。

考えている人にもおススメしない。



なぜだかおわかりだろうか。


その特攻には命を散らすに見合わないデメリットがあるのだ。


自分の命を散らすことはしっかり狙えば確実にできると思われる。

だけど、その命を賭した「特攻」の成果を確認することができないのだ。

理由は簡単、任務遂行とともに自分は既に死んでしまっているのだから。


自分の死を知った相手が、どれだけ精神的ダメージを受けているか、

また、どんな憔悴した顔を披露してくれているのかも見ることができない。


いやいや、最悪相手図太くて無神経な根っからの悪人なら、自分が苦しめたことに

よって、その相手が自殺したと知ってもケロッとしてまったく気にせず笑っているかも

しれない。


それはつまり特攻失敗と同じだ。

海上に浮かぶ巨大戦艦の指令室に向かって、最大速度で機体ごとつっこんでいったが

方向を誤り、船尾をかすっただけで海につっこみ爆発したゼロ戦に等しい。


人間だもの。それだけ大きな行動をする限りは結果を見届けたい。


命を持って相手を成敗するという考えは美しい覚悟のようで、ギャンブル哲学なのだ。



また、特攻される側……つまり人を苦しめたり追い込むほうの悪い人間についてだが、

先ほど書いたように本当に人の苦しみや痛みに無神経な輩が多い。



数年前にとある中学校で自分がいじめていたクラスメートが自殺したという情報を聞いても

後悔や反省するどころか、ヘラヘラと笑いながら「とうとう死んだか」といっていた中学生が

いたというのを聞いて愕然とした。


社会では、やられたらやり返せ、侮辱されたら言い返せ、という論をよく耳にするが、

それが正しいことだとしても、残念ながら、やり返されても言い返されても、それに対して

「痛くも痒くもない」「それがどうした?」という人間も少なからずいる。


ようするにやり返しても、言い返してもダメージを受けないのだ。

だから、こちらに対する攻撃も容赦なく続けてくる。


そんな人間に攻撃をやめさせ、また痛みというものがどういうものかを教えるにはどうしたら

よいのか?


誰だったか忘れてしまったが、こんなことを書いていた。


「なにをやっても応えない奴に人の痛みや悲しみを知らせるためのダメージを与える

最高の手段は、相手本人ではなくて相手が一番大事にしているモノを壊すことだ」


そう、それは車であったりマイホームであったり……恋人であったり、家族でもあったりする。



ふたつの意味でおそろしい。ふたつとは「内容」と「見事なまで的確な説得力」だ。


多くの善人の人はおそらくその考え方に大反対だろう。


その理由として多そうなのはきっとこれ。

「張本人は問題あるとしても、奥さんや子供に罪はない。そこに矛先を向けるのは違う」


それもそれでもっともな声ではあると思う、モラル的には……。



だけど、本当にその手段をやらない限り、相手が罪のない人間を苦しめる行動をやめないと

いう前提があるならば、モラルに反してもやらざるおえないというのも考えないといけないのでは

ないだろうか。


やらない限りは今日も明日も明後日も、ひとり、ふたりと犠牲者が増えてゆくのだ。

これこそ「必要悪」ではないだろうか。


2択しかないとすればどちらを選ぶ?



世界とはいわず、この日本だけで考えても、


「善人」と「悪人」

「バカ正直な人間」と「ずるがしこい人間」

「強い人間」と「弱い人間」

というそれぞれ2タイプの対極に位置する人間が共存する限り、

『すべての人が幸せな生活を送れる世の中』

というものは、はっきりいって不可能なSFのような幻想ではないかと考えられる。


‘すべての人’という括りのなかには、アナタが許せないような人種ももちろん含まれている。

そして、そういう人種が大事にしている家族も当然含まれている。


そういった人種がそういった人種なりの幸せ、つまり今までどおり好き勝手やることを続けられる

ということは、あなたは幸せになれないということを意味する。


じゃあ、そういう人種を改心させて、本人もあなたもともに幸せな生活を送れるようにするのであれば、さっき書いたように、そういう人種の奥さんや子供を不幸のドン底へ叩き落とさなけれな

ならない、つまり幸せになれないのだ。


あくまでも例え話ではあるが、こういった例を出すと家庭を持っている人は怒るかもしれない。

極端な言い方すれば、敵を生み出すということ。



かといって養護すると、裕福な家庭を持っている最悪のやつから苦しめられている

独り身の人間を敵に回す可能性だってないとはいえない。


地球上には人の数だけの考え方と状況と人間性と境遇などがばらまかれている。

日本だけでもそれは2億以上だ。



誰からも嫌われず、ひとりの敵もつくらず、誰もが住みよい世の中をつくろうと動いたり

訴えたりするのはまず無理だろう。



話を身の回りの環境だけに置き換えても、それはいえる。


会社でも仲間内のサークルでも、本当にみんなのためを思うのであれば、みんなのために

自分がみんなから嫌われるくらいに覚悟が必要かもしれない。


そうそう、これもまたさっき、家族持ちの男の話がでたから、ついでに書いておこう。


くどいようだが、ここでも引き続き自分が結婚して苦労しているとかそういった視点はリセットして俯瞰で見て考えていただきたい。



戯曲『サロメ』の作者であるオスカー・ワイルドの名言にこういうのがある。


「やれやれ! 結婚とは男をなんと堕落させるものなのだ。結婚は煙草と同じくらい

人間を堕落させ、しかも高くつく」


これを読んだとき、石原慎太郎(好きじゃないが)の小説『太陽の季節』の終盤のくだりが

すぐに頭に浮かんだ。


主人公はとんでもないワルの青年なのだが、やがて愛する女性ができて、女性は妊娠する。


妊娠を知った青年は、これをきっかけに彼女と結婚して幸せな家庭をつくり真面目に生きようと

途中までは思うのだが、ある時、テレビのボクシング観ていて、試合後、リングの上で自分の子供を抱いて微笑んでいるボクサーの姿を目にし、「子供や家庭を持ってしまった男はあそこまで牙を抜かれたような情けない顔になってしまうのか」という思いに駆られ、最期一転して彼女の中絶させる。彼女はそれにより死亡。


そんな人間のクズの話。過去にも記事で書いたけど。


オレが共通して感じたのは、男も結婚することによって‘守り’に入ってしまうのだ。


世の中を変えよう、是正しよう、間違えて進行していることは修正してゆこうという思考を停止し、

それが少なくとも正しい軌道ではないとわかっていながら、家庭を養うために守りに入ってしまう。


だからそれは、自身の家族にとってはとても優しいことにはなるのだが、一緒に戦って

世の中の間違っている部分を直してゆこうという人たちが差し伸べている手は拒否している

わけだから、戦うべき相手と戦おうという心意気を持っている人にはまったく優しくないことに

なる。


どちらが正解なのかはわからない。

どちらも正解なのかもしれないし、不正解なのかもしれない。



これって、

〈にわとりが先か? たまごが先か?〉

の理論とそうかけ離れていない気もする。


まずは世の中を見捨てて、自分の幸せを優先した生活を送る。

自分と家族だけの幸せに集中した生活をしばらくの間過ごすことによって、心が満たされ

いずれ、そういう決戦の時がきた時、家族のこれからのために万全の体勢で戦うことができる

といわれればそうかもしれない。



一方で、家族とか恋人とかそういった守るべき存在を一切作らずに、まずは世間の間違った

部分と徹底的に戦うことを優先する。

もし、その革命が成功で幕を閉じれば、世の中はとても住みよいものとなる。

そのあとで恋人を作ったり、家庭を設けたりすれば、幸せな生活の基盤は安泰だ。


さあ、優先すべきはどちらだろう?


ここまでは考えられるけれども、答えは何年たっても出そうもないな。

世の中を是正するという考えが幼稚だとかいう人とは、もうそこで話が終わり。


答えがどこに辿りつくかとか幼稚だとかいうよりも頭を使って哲学することと、完璧な守りに

入らずそういった精神を持つことが大事なのだ。


世の中が住みやすくなればいいというのは、国民全体が同じだろう。

ただ、ゴールは同じでも、そこにゆくまでのルートにおいては衝突が避けられない。


上にあげたどちらを優先するかの例。


片方推せば、養う辛さをわかってないくせにと怒られるかもしれないし、

かといって片方を推せば、結婚する人間は自分の家庭が幸せなら世の中が変わらなくとも

いいんだといわれるかもしれない。



生きる者全員の幸福を考えたうえでも敵をひとりも作らないといういうことはやはり不可能だ。




ここまでツラツラと書いてきたことが内容にあるわけじゃないが、オレ的にはそういったことを

改めて哲学させられたのが冒頭に貼りつけた白石一文の一冊である。


――


戦争、テロ、狂信、犯罪、飢餓、貧困、人種差別、拷問、幼児虐待、人身売買、売買春、兵器製造、兵器売買、動物虐待、環境破壊--。私たち人間は歴史の中でこれらのうちのたった一つでも克服できただろうか。答えは否だ。
 かくも、残酷で無慈悲な世界に生まれ、苦痛と恐怖に満ちた人生を歩まされる「死すべき存在」としての人間。だからこそ、人間には、「愛」が必要だ。ここで注意深く伝えたい「本当の愛」は、憐憫であり、哀れみである。その愛は、死に対して為す術もなく無力であるからこそ、差し述べることのできる遍く広いものである。身の回りの特別な相手だけの幸福を祈ることから離れることができてはじめて、ひとは、貧困、暴力、戦争、差別、迫害、狂信といった諸悪を無力化することに向けて船出をすることができるのである。

(アマゾンの内容紹介より引用)



自分には妻も子供もいるが、まったく愛していない、といった人間否定から始まる。


ドストエフスキーの某作品のように、独白体で最後まで文章が進行する。


洪水のように世に溢れる疑問や矛盾。



途中でいじめられっこの話がでてくる。


クラスでいじめられている女子生徒がいた。


ある日、その女子生徒の妹が誘拐犯に誘拐され、死体で発見される。



葬儀の席で、妹が殺され憔悴している女子生徒の姿を見たいじめっこは

いじめ仲間に「もう、あの子をいじめるのはやめよう」といい、その日からいじめは止んだ。


よかった。本当によかった。


だけど……


それって結果的に女子生徒をいじめ地獄から救ったのはクラスメートでも教師でもなく

誘拐犯ということになるのでは……


そこから先は読んでいただければ(笑)


直木賞作家である白石氏が「人生」や「死」について、投げかけたいことが凝縮されているのを

感じる一冊だった。



正解を訴えてくる本ではなく、一度モラルだとか立場だとかそういうものをかなぐり捨てて、

自身で哲学してみろということを教えられたような気がした。


終わり方について賛否はわかれているがそれも理解はできる。


ひとつ確実にいえるのは、下世話なビジネス書なんかより明らかに読む価値のある一冊。


哲学抜きで、ひとりの悩める男のひとりごとを読む感覚という意味でも楽しめる。


是非。