観光の哀しみ | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

酒に関してタモリは「昼に呑むのが通」と言っていた。

また、昼呑みができる店を紹介する番組のナレーションでは決まって

「昼から堂々と酒を飲める背徳感がいい」と言っていたりする。


オレは正直、夜酒派。

道徳とかまったく関係ない。

ただ単純にすべての仕事や遊びが終わってから呑むほうがうまく感じるだけ。


だけど、シチュエーションによっては休日の出先で友人たちと昼に酒を飲むことはある。

でも、別に背徳感とかはまったくない。

自分の自由な時間と金をどう使おうがオレの勝手だし。

まっぴるま王から酒を呑むことよりも、営業や面談で楽しくもないのに事務的な嘘の笑顔を

している自分に対してのほうがよっぽど背徳感と罪悪感にまみれている。


よって昼間に酒を呑んだところで後ろめたい気持ちはゼロだ。


あと、感覚的なもので言えば後ろめたさはないが、ここちよい敗北者感と、これから仕事に行く人に対する勝利者感を味わえるものがオレにはある。

それが「平日出発の旅行」だ。


たとえば金曜日に休みをとって、その休みを週末にアタッチメントする。

一泊もしくは2泊で土曜日曜に帰る旅。


みんなが働いている平日金曜日に、私服で家を出て、スーツ姿であふれる駅のホームに行く。

ほとんどのサラリーマンが電力を大量消費するヒートアイランド23区のほうに向かってレール上

を走る満員電車に乗る。


ガラスの曇った満員電車の中で苦しそうな表情を見せるサラリーマン、キャリアウーマンを

横目にみながら反対の田舎のほうに向かって走るガラガラの電車に乗り込んで、ガラガラの

シートに腰をおろしバッグから読みかけの小説を出してゆっくりと温泉地につくのを待つ。

これが最高に気分いい(笑)


最初にも書いたとおり、このシーンでは勝利者と敗北者のふたつの気分が共存しているのだ。


これだけ多くの人間がこれから経済を煽る戦場へと繰り出そうとしているのに、オレだけが

逃避行しているという、社会から烙印を押されて落ちてゆくような敗北感。


同時に、みんながこれからストレス地獄にのまれる一日が始まるというのを横目に、オレは

ストレスとは無縁の土の匂いのする自然の地へ羽を伸ばしにゆくのだという勝利者感。


そんな二元論的対立があるから金曜出発の旅というのは好きである。


ただし、そういう時はできればひとり旅のほうがいい。

どちらかといえば勝利者感よりも敗北者感のほうをやや濃いめにしてバッグにいれて

出かけるほうがいい。どこか逃避行をにじませて。


「ひとり旅は寂しい」「友達と盛り上がりたい」という声はいろんなところで聞く。


だけど、ひとり旅の醍醐味というのは哀しさと寂しさではないだろうか。


作家の酒井順子サンという人が著書「観光の哀しみ」の中でそう書いていたのでオレは

共感させて頂いた。



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去年は長野や箱根など多少プチ旅行に出ることができた。

人間なんて明日どうなるか保証ないから、今年もまた1、2回くらいはビンボー旅行に行けたら

いいなと考えている。

できればどこか寂しいひとり旅も。


酒井サン曰く、

「観光という行為は基本的には『招かれてもいないのに出かけてゆく』ことによってなりたっています」


「訪問というものは通常、『呼ばれる』から『出かける』ものです。しかし私たち観光客は誰からも

『来なさい』と言われていないのに世界中に出かけ、滞在してしまう。

それはすなわち、招待状を受け取っていないパーティにのこのこ出かけてゆくようなもの」


と書いている。


それを前提としたうえで


「招かれてもいないのに、ここに来てしまっている私」という哀しみは、時として旅情というものに

すりかわり、旅にアジ出し効果を与えてくれる。


と、つないでいる。


そう、ひとりの哀しさや寂しさは決して悪いものではない。

これが「旅情」なのだ。


気の知れた友人数名でゆく旅行もそれはそれで楽しいが、ひとり旅で宿の部屋に入って座った

時に訪問してくるあの沈黙と静けさがオレはたまらなく好き。


「ああ、オレは遠方にひとりで旅に来たのだ……」

と実感する。


宿の床は絶対に…とはいわないが可能な限りは畳。


カーペット敷きのビジネスホテルとかだと、どうしても出張感覚になってしまう。


朝早く出て鈍行に揺られてクタクタになって宿につき、チェックインして部屋に入り

しばらく畳の上でゴロンと大の字になる。

そして5分くらい動かずに天井の木目やシミをじっと見つめる。

すこし落ち着いたら風呂に行き、出てきたらビールをキューッと呑む。

この間誰も話し掛けてくる人間はいない。

寂しさという仮面の奥にある旅情という素顔。至福。


上に書いたのはオレの考えだが、本で酒井サンも

「哀しさのない旅行など、日本人である私達にとっては意味のないものではないか。

最近はそう思うのです」

と書いている。


宿周辺をひとりでふらふらしてみるのもなかなかオツである。


観光地としてヘタに俗化した名所や建造物とかに行くよりも、地元のさびれた

昭和臭プンプンのゲームセンターとかに立ち寄ってみると、そこに旅情があるかもしれない。

BGMには当然エグ○イルなんて流れていない。

今の時期で経営者ばりに最大限に若者ウケする曲を追及した結果として有線から大音量で

流れているのが相川○瀬の「夢見る少女じゃいられない」とか。

田舎の温泉街のゲームセンター像としては理想だ(笑)


逆に一度宿に入ったら外に出ず、部屋でゴロゴロしながらどうでもいいテレビをずっと見ている

というのもオツかもしれない。


やばい。


こうやって書いているうちに今年もどっかひとりで哀しい旅に行くたくなってきた。

よし、ちょっとゆく行き先を探すか。


ちなみにドラマや小説などで心中目的の男女が旅に出る場合、季節は冬で、

雪が降っているような北国や海沿いが舞台という設定が多い。


酒井サンによるとその理由は、暑い場所だと死体の腐乱が早くて美しくないという思いが

心中するふたりにあるからだそうだ。


あと、同じくドラマや小説において、「死体・女将・姉妹」はさほどの美人でなくとも美人と

言い切ったほうが事態が盛り上がるという。


的を得ている気がするな。

実際の殺人事件とかのニュース見てても被害者が女性の場合はやけに「美人○○」と

書かれている場合が多い。

男の場合はあまりそういう形容詞がつかないけどね。