本の話題を2つほど。
まずひとつ。
太田出版から発売されて世間を騒がせている元少年Aの手記「絶歌」について。
普段はマイノリティな価値観を謳っているオレではあるが、この本のゲリラ的な出版は
さすがに納得イカン。
結果として印税や広告の協力になりたくないから参考資料としてもあまり画像を載せたくない。
だからアマゾンのアフィリも貼りつけない。貼り付けたくない。
案の定、評価はひどくて販売した太田出版もかなり叩かれている、当然だ。
こういう類の本が出版されると、ごくごくたまに
「出版することはあまりよろしくないが、読んでみると意外とそこに‘何か’」があった」
とかいう声。
今回の酒鬼薔薇の手記は読んでいないから、本書については何とも言えないが
実際に殺人を犯した人間が書いたものでも、本当にその文章の中に‘何か’があった
といったケースがあることは否定しない。
本当に文才や現実を見抜く目を備えた犯罪者が、本当に反省した結果綴った文章が
世の中の闇の核をついていたなんてことだってあると思う。
でも、今回の一番の問題は書かれた内容の良し悪しではないだろ。
報道で紹介された数行した知らないが、100歩譲って、大部分に事件や闇の核心を
ついた部分や警鐘的な部分があって、文章的には優れたモノだったとしても発売するべきではない。
その理由に複雑な個人の見解も哲学もない。
単純に
「遺族の了解がないから」
たったそれだけだと思う。
でも、その‘たったそれだけ’が、かなり大きいことなのだ。
出版社サイドはもっともらしい理論で出版のいきさつをコメントしていたが、出版が間違ってなく
世間に対して読んでもらうべきだという自信があるのなら、なぜ出版前にご遺族に相談しなかったのだろうか。当然そこで相談してしまうと断られるのが明らかで本が出せなくなってしまうからだ。
そして当時の情報によると、印税に行方は不明。
ただご遺族に対しては賠償よりも気持ちが大事だと思う。
仮に「印税はすべてご遺族へ」といった意図でも出版すべきではない。
すべてがカネの問題ではないというのもあるし、ご遺族だっておカネなんかよりも
そっとしてくれるほうを希望しているのは間違いないのだから。
それと言うまでもなく、今回の強行出版には犯罪ビジネスの匂いしか感じられない。
とりあえずはカネ。そこにあとづけで、社会のためにといったような持論をもってくる。
批判が殺到するのはわかっているが、それでも出してしまえば売れる。そういう意図。
オレはたとえ未成年だろうと、凶悪な犯罪を犯した者に関しては顏と名前を公表しても
よいと思う派だ。
だからこれまで週刊誌などが未成年犯罪者の顏を掲載した時、掲載そのものには
反対しなかった。
でも正直、そこには出版社側の犯罪ビジネス主義も垣間見られたのが嫌だといった気持ち
はあった。
ただ、出版社の欲が見える部分は嫌だが、そこで晒されているのは遺族でなく加害者。
ある意味「2次被害にあっている人間はいない」という捉え方で比較的納得していた。
しかし、今回のケースはあきらかにご遺族が「3次被害」にあっている。
(土師淳くんのご家族は、事件後マスコミに追われただけでなく、悪意のある一般人から
「本当はお前が殺したんだろ」とかいう嫌がらせ電話を何度も家に掛けられたりもしたと
手記『淳』の中で書いていた。そんな2次被害から時間がたった今にまってまた気持ちを
踏みにじられるような出版をされたのだ)
あえて極端に言えば、そういう本を出すならば、せめて「遺族」ではなく「加害者」のほうを
踏みにじるべき。
それと、思ったことをもうひとつ。
元少年Aが本当に反省しているのか疑問だが、もし今回の出版の理由が
「本当に反省」から来ていたとしても、彼は「反省をしたかった」という想い以上に
「自分の本を書きたかった」という願いのほうが強異様に感じてならない。
報道を観ていると、なんとなくわかるのだ。
認めたくないけど元少年Aもやはりどこか表現者タイプなのだ……。
市橋達也の逃亡手記を読んだ時も感じた。
多少は反省と告白をしている(?)のかもしれないが、それ以上に、こいつは作家きどりで
自分が主人公の告白小説を書きたいだけだったのだなと。
文章における言い回しや表現がやはりどこか芸術家をきどっていて、反省や懺悔の文章に
してはやけにハナについた記憶がある。
今回の騒動はご遺族を突き落としただけでなく、加害者の夢をかなえてしまう結果になった
のだよ……。
殺された淳君は将来を消されたけど、殺した側は普通の生活を取り戻した上に、自分のやり
たかったことを、カネ儲け主義にオトナに叶えてもらうことが出来た。
オレはそこに最大の皮肉を感じずにいられない。
もうこの話題はいいや……
もうひとつの本の話題、なのだけど――
芥川賞候補だとぉ!!
これはすごい。
中には著者がタレントで、なおかつ売れて話題になったから候補になったんだろうと
嫉妬する人間(そういう人に限って小説とか読まない人)もいるだろうが、これは
本当にすごいことだ。まさかこんな展開が来るとは。
すごいよマタヨシさん。
「火花」の芥川賞候補はすごい。
なにがすごいって、オレの知っている限り、又吉はこれまで2000冊以上の本を読み漁り
また各雑誌などで本に関するエッセイとかは書いたりしているけど、学生時代とかに実際
長編や中編の小説を書いていたなんてエピソードは聞いたことがない。
いくら造詣があるとはいえ、いわば「読み専門」といったイメージだった。
本当は書いていたことあったのかもしれないが。
今まで本格的に執筆したことがないとして、わずか3カ月でアノ作品を仕上げたとすれば
やはり天性の才能だというしかない。
しかし、今回のこの報道……
オレにとってかなり起爆剤となった。
ほぼ毎晩、こつこつと書いたり修正していたとはいえ、正直ここ最近ペースもアイデアも
失速気味だった。昼の仕事の疲れや、優先しないといけないその他の作業が向かい風と
なっていた。
だけどこの情報を知って、
「こんなペースじゃイカン」と思ったのと同時に
「何がどこでどういう方向に転がるかわからない」
と思って、気を引き締めなおしてパソコンに向かった。
「火花」が飛んできて、文字通り、オレの気持ちに点火した。
又吉の候補に関してはもちろん実力あってだが、正直タレントとして話題性が
後押ししたことも多少あると思うし、掲載するきっかけがあったというのも我ら一般人と違う。
ただ、一般人でも誰がどこでどう評価されるかなんてわからないのは同じだ。
バイト時代の先輩と電話で話した時に、オレが倍率に関してダメ元みたいな発言をしたら
先輩がこんなようなこと言った。
「競争率が100倍だろうが、100000倍だろうが関係ない。おまえに才能があれば
たとえ100000倍だろうが、いつかは通る。通らないやつは何倍であっても通らない」
言われてみればたしかにそうだ。
何かとあればこのコラム内で「数字じゃない」とか「順序じゃない」とか言ってきたオレだけど
文学賞において一番、倍率という数字を気にしていたのはこのオレだった。
誰かよりも良い作品を書こうというのではなく、オレにしか書けない表現をそこにつないで
ゆけばいいのだ。
ちょっと冷静になれた。
そんなこんなで、今回の又吉の件が刺激剤になったこともあり、今日やっと修正作業を
終わらせることが出来た。
(まあ、もともと既に終盤あたりまで修正が進んでいたのだけれど)
最終的に原稿用紙239枚まで絞った。
あとは、今度こそホントに最後の最後の読み通しチェックだけで終わらせたい。
誤字脱字程度の簡単チェックだ。
筋や文章の修正まであわせてしてしまうと、もうキリがない。
今回は極力間違っている部分だけ直すようにして終了したい。
米はあまりとぎ過ぎず、多少とぎ汁が濁っているぐらいがいい。
さあ、今度こそ本当に最終段階だ。
長かった。
この1作品だけで、けっきょく1年半掛かった。
(厳密にはまだ完全に終わっていないが)
でもここまで我ながら本当によく挫折もせず、匙も投げずに継続できたと思う。
『無理だと言われた瞬間に、やろうと思った』
――長渕剛の名言
『闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう』
――中島みゆき「ファイト!」
ちょっと落ちついたから、そう遠くないうちにまた一人でふらっと旅に出ようかな。
行けたらだけど……(._.)