仕事は“やらされるもの”である | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

年末に早朝鈍行仲間の友人と居酒屋で酒を飲みながらこんなことを話した。


仕事している時に、「(仕事を)やらされている感」が出ていると注意する人や、されている人がいるけど、そんなの当たり前じゃないのかと。


そもそも仕事とは「自分からやるもの」ではなく「やらされるもの」が仕事の定義だとオレは思って

いて、自分から張り切ってやろうとするものであれば、それはその時点でもう「仕事」ではない。


そういう意見を言うと、友人もその通りだと納得していた。(ちなみに友人は課長職である)


人生における時間は大きく分ければ2つになる。

「仕事の時間」と「個人(自由)の時間」の2つだ。


仕事時間が食べるためにしょうがなく「やらされている時間」であり、

個人の時間が遊びや趣味などに向けて「自分から進んで何かやろう!とする時間」である。


一生という限られた時間は、仕事も遊びも何からなにまで、自分から積極的にやってやろうと

思えるような甘いプログラムで構成されていない。


週に5日はやらされて2日間は自分から好きなことをやる。

6日間やらされて、1日は自分から好きなことをやる、というのが世の中に初期設定された

平均プログラムである。

中には14日から30日やらされて、やっと1日自分から好きなことをやるといったハードな

設定に埋め込まれてしまっている人もいるかもしれない。


現在の生活において、何から何まで、朝から晩まで、やらされるんではなく自分からやって

やろうなんていう気持ちになる桃源郷のような眩しさと明るさが満ち溢れた環境なんて存在

しないだろう。


人間とは感情を完全に抑制できるほど都合よく創造されていないのだ。

ある程度は抑えることが出来たとしても、「やらされているもの」に関しては多少なり

「やらされている感」が出て当然である。でなけりゃ、それは血の通わないAIBOと同じだ。


だけど、本当にそう思っているのかそれとも立場上のイメージアップ戦略なのか「やらされてる感」とか「やる気の見えなさ」というものを出す人に対してものすごく敏感な人というのもいる。


そういう人って考えているようで、i意外と自身の考えとか哲学を持ち合わせていないというのが

オレの印象。


たしか、まだ大学在学中の22,3歳のころだったと思う。


どっかの企業に面接に行った時に、面接官の人が求める人材や社内環境を説明した時に


「やる気がある人がほしいんですよね。社内に1人でもため息ついたり、マイナスなことを言う人がいたら、みんなのモチベーションが下がるんですよ」


と言っていた。


それを聞いた時、オレはまだ若僧なりに

「この人、企業の窓口的な採用担当やっているのに、どうして自分の会社の恥部をさらすようなことを平気で言っちゃうんだろう」

と疑問に思ったのだ。


それなりに中規模な会社で2、30人は社員がいた。

そしてその窓口の人間は、「1人そういうこと言う人がいるとみんなのモチベーションがさがる」と

も言った。


これだけ人がいる空間の中で、たったひとりの人間がため息ついたり、やる気無いことを一言

言った程度で、職場全体の空気が左右されたり全員がやる気を削がれたりすれるほど、うちの

会社は集中力のない人の集まりですよ、と、社を代表して外部の人間に言ってようなものでは

ないのか、と。


鈍感とかいうことではなく、オレの場合は一度集中して何か作業をし始めたら、周りの人間が

個人的な悪口とかでもない限り、何か一言くらい言っても、あくびしてもため息をついても、気にせずに作業が出来る。結果的にその作業がうまくゆく、ゆかないは関係なく、作業自体は出来る。

それは何時間も言われ続けたりしたら気も散っていらいらするだろうけど、数分間くらい個人で

つぶやかれても支障をきたさず作業に集中することくらいは出来る。


だけど、その窓口は「たったひとりでも、みんなのモチベーションが下がる」と。


あくまで……あくまでオレ個人の見解だが、30人の職場だとして

「やる気ないこと呟く人が、1人いる職場」というよりも

「たった一人の発言に空気や集中力を左右されるような人が29人もいる職場」

というほうが、よっぽど大問題だと捉えられるのだが。


そして、そういう無防備なことをしれっと学生に言ってしまう窓口も問題。

正直なのか、それともよく考えていないだけなのか。


正直なら、それはそれでよろしいことかもしれない。


本当は左右されるのが一部で、それを「社内みんなが」と言ったのであれば、それは

誇張表現である。

実体や具体数に見えにくい「みんな」というのは少数派の声を弾圧するにあたるもっとも

卑怯な最大公約数の言葉である。


「みんな」と「死んだおばあちゃんの遺言で」というワードはトランプで言えばジョーカー。

それを出されたら、その後はどんな意見カードも通用しない。

そして弱かったり自分の哲学を持っておらず、多数派に巻かれる人間ほど「みんな」と言う

ワードをよく使用する。これに関してはみんなもそう思うだろう。


職場環境に話を戻していえば、オレは熱血で明るい人間から、何を考えているか理解できない

人間、オタクっぽい人間からインテリ人間、そういったあらゆる人間がいる環境のほうが面白い

企画や発想が生まれるような気がする。


そう、例えるなら、ひと昔よくあった刑事ドラマとかで、警視庁や警察署の中でも全く陽の当らない

お荷物的な「課」があったりするが、あんな感じ(笑)

出動したくてうずうずしてるマッチョな刑事もいれば、机の上に足を乗っけてヒマそうに

耳そうじや爪切りえおしている刑事もいる。今では差別とされるようなお茶くみの女性もいる。

その女性はほとんどの確率で幸うすそうか、性格がすれている。

個性にとんでいるだけ、それだけの考え方がありそうでいいではないか。


みんなで同じ方向を向き、「上司の気分=社員全員の気分」

「社長が不愉快に思う発言=社員全員が不愉快に思う発言」といった強制的空気が

澱んでいる職場よりよっぽど動きやすく、誰もが考えなかった企画とかが生まれそうな気がする。


他人の一言やため息を気にするヒマがあれば、それこそのわずかな時間の間に何か斬新な

アイデアの一つでも考えろよ。というのがオレの見解。


あと、オレが自身の営業経験からも悟って、過去にブログで共感の声を頂いたことからも

わかったこと。


それは上司や採用担当者から否定されるような表情や発言ほど、意外と取引先や飛び込み先からはうけて評判いいということである。

参考までに過去記事リンクを下に。

『プレゼンの達人は嫌われる』

『笑ワナイさらりぃまん』  

                                                               

本人がそういったように「仕事はやらされるものではなく、自分からやるものだ」といった心意気を

持って動くのは自由だが、現実問題、社会で働く多く人は「ああ、今日も仕事だりぃなあ」という

心境でしょうがなく働いているのが現状だ。

そんな人たちがいる営業先や取引先の店や企業に、熱いこころざしを持って出かけて

「仕事はすすんでやるもんです」的な雰囲気を出したら、喜ぶ客もいるかもしれないが、きっと

多くは「暑苦しい」「こいつは仕事が楽しそうでいいよ」と思われる。                                  

ホントに相手に気に入られたいのなら、笑いながら消極的なことをいうべきだ。

「もうお互いに仕事なんかほっぽらかして、一緒に遊びに行きたいですね」とか言いながら

互いに会社や上司の悪口とか言っておけばいいのだ。

「うちの会社なんて潰れればいいのにって毎日思いますよ!」とか言っておけば、

好感度はおそらく上がる。                                                                        

「攻撃は最大の防御なり」じゃないけど、使用法とそのタイミングさえあれば

「ネガティブ発言は相手を攻略する際における最大のポジティブ武器になる」とオレは考える。

体裁やイメージだけで、「やらされている感」を出す人間を抑圧する人間は、知らないうちに

ひとつの可能性を損失している。損失していることにすら気付いていないのが哀れだ。

時と場合によるが「仕事はやらされている」と思っていたほうが良い方に転がるし、

ヘタに自分に綺麗事を言い聞かせるよりも、そう割り切ったほうが楽で、返ってフットワークも

軽快になるのではないだろうか。                                                   

いいじゃないか。週に5日(6日)やらされるけど、たっぷりやらされた自分へのご褒美として

自分から好きなことを「やれる」と割り切れば、乗りきる楽しみも出来るし。

仕事は「やらされるもの」だから仕事なのだ。

遊びは自分から「やってやろう」と考えるから遊びなのだ。

組織に属するサラリーマンに限らず、自ら道を選んだ芸術系の人や、個人営業者だって

好きなことをやっているわけじゃない。たとえ組織や上司の存在がなかったとしても

自ら1人で生み出す苦しみをうける道を選んだという時点で「自分自身から仕事をやらされる」ということだと思う。

たとえ好きなことであっても、考えたり悩んだりする苦しみは当然伴うのだ。

だからそれは「やらされている」という結論になる。                                        

それでもやはり、「やらされている感は出すものではない」と主張する人も多い。

新卒の時の採用担当者のように。

でもオレは、ティーバッグから滲みでる紅茶成分のように、彼らの全身から

「本心はそこまで思っていないんだけど、採用担当として、そういう発言を若い人に

言っておかないと立場上まずいんだよね」というような『言わされている感』が思い切り出ているのを感じたのだった。