夜ノヤッターマンっす | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。



勝負事を客観的に観る時というのは、どこに「視点」をおくかというのが大事である。

右から観るか左から観るかで、どちらを応援するか、あるいはどちらに共感を得るかというのは
大きく左右する。

時にオレらは一方的な情報や報道だけに耳を傾け、極端に言ってしまえば「味方」と「敵」
あるいは「勝つべき者」と「その時は負けてほしい者」の判断を見誤るものだと思う。

とくに興味や知識があるスポーツでもなければ、贔屓のチームも選手もいない対決を見る場合。

もともと中立にいる民衆が応援する側はだいたい、「辛い過去および現状」を背負っている
ほうのチーム(選手)だったりする。
地元が自然災害にあったとか、病気の子供のファンがいるとか、所属する学校がとても貧しい
だとかそういった「背負っているもの」があるほう。

人間心理としては、弱い立場や、辛い状況を耐えてきたものが同情を得るというのは
当然の流れだと思う……が、
オレは実際には「背負っているものがある」ほうが大衆の共感や支持を得て多くの声援を
受けているのではないと考えている。

「背負っているものがあるほう」「ひたすら苦労してきたほう」が応援されているのではなく
「背負っているものや、苦労してきたことが‘認識’されているほう」が大衆から共感や支持を得て、応援されているのだ。

言いたいことがご理解いただけてるだろうか?

大学生の時にダウンタウン松本のエッセイを読んで、とても共感した文章があった。

スポーツなどのゲームで勝利チーム(勝利者)についての紹介やドキュメントを流す際に
「○○チームファンには重い病気にかかって入院している子供がいて、選手(達)はその子の
ために頑張って優勝した」とかいう紹介があるが、相手チームにだって重い病気にかかった
ファンの子供はいるかもしれない。 とかいうような内容だったと思う。

べつに勝ったチームにケチをつけているわけでもないし、勝ったチームに関しては
それはそれで素晴らしいことかもしれない。
(オレはあまりスポーツ興味ないけど、ここではあえて素晴らしいと言っておこう)

ただ松本の理論に関してはオレも前から同じことを思っていた。

例えば2つのチームが対決するとして、両チームともに重い病気の熱狂的ファンの子供を
抱えていて、さらに両チームともに家がとても貧乏な選手がいて、その選手が試合で活躍して
プロに入って、親孝行をしたいと切望していたとする。

両チームとも同じようなファン、同じような環境の選手を抱えていて対戦することとなったと
する。
一部のマスコミが片方のチームのそういう背負った背景を嗅ぎつけて、あとのマスコミも続けと
ばかりその片方のチームを徹底的にとりあげ、
「このチームにはこういう病気の子供のファンがいます。選手たちはこの子のために……」
などとお涙ちょうだい的演出を繰り広げる。

それはそれで感動なのは認める。
そして、どちらのチームのファンでもないその他大勢中立な人たちは
「そのスポーツはあまり興味ないけど、そっちのチームに勝ってほしい」と
思うようになるだろう。


しかし、世間に現状は認知されていないだけで相手チームだって背負っているものは
同じなのだ。病気の子供もいれば、貧乏な家で育った選手だっている。

これはヘリクツではなく、実際のスポーツ業界や応援する人達の世界に関して、
どんなチームにだって病気でなくとも辛いものを背負いながらも生きて、応援するチームの
活躍を励みや楽しみにしているファンは現実いるとオレは思っている。

もともと興味もなんにもない選手や団体に試合を観るにあたって、
このチームはこういった過去がある、こういった苦労がある、こういった家族がいる、
そしてこういった恵まれないファンがいる、といった情報があった場合、オレらは
そっちのチームを「勝つべきもの」という基準にしてしまうだろう。

でも冷静に考えてみると、オレらは決して「背負っているものがあるチーム」を応援しているのではないかもしれない。
メディアや世間が流す情報によって「背負っているものがあると認識しているチーム」の応援を
しているのだ。

対戦する相手と同じ境遇でも、その状況が観る側に知られていなければ、聴衆の多数からは
「負けてほしいチーム」として位置づけされてしまう。

これがもし観覧する立場ではなく、自分が試合する立場で、対戦相手だけが背負っているような
目でみられるた時の自身の心境を想像して頂きたい。



以上、一方的な「視点」の危険度講義から入ったわけだが、今回紹介するアニメ、
「夜ノヤッターマン」

ギャグアニメの金字塔と言われたタイムボカンシリーズ「ヤッターマン」のスピンオフであり
最近、MXテレビで放映開始された。

友人からのメールで、こんなアニメが始まるんだと初めて知った。
まったくノーマークだったわ。


「夜ノ」という言葉がくっついているので、どこかオトナっぽいアダルトな匂いがするが
そういうアニメではない。

昼夜逆転という言葉があるが、これこそ、かのヤッターマンの世界観における視点を逆転させた
設定のアニメ。

キャッチは
「ドロンボーがいる限り、この世にヤッターマンは栄えない」

そう、主役はドロンボー。
いや、正確にはドロンボー一味にドロンジョ、トンズラー、ボヤッキーの子孫たちが
主役なのだ。

声優もがらっと代わり、ルックスもグラマー&ニンジン鼻&短足マッチョではなくて
今ふうのオシャレな若者に代わっていて、とても子孫だとは思えない。
だけど、作品中にはご先祖様の写真(肖像画)として、あの歴史的な3人もちゃんと登場する。

逆転したのは主役だけではなく、作品の世界観そして「善」と「悪」が逆転している。
(第一回目の段階でわかる限り)

はるか昔にドロンボー一味を倒したヤッターマンは、平和な国「ヤッターキングダム」を
築きあげた。
だが、時間が流れるにつれ、その王国は人々が平和に暮らせるような国ではなくなってしまった。

作品を観る限りでは、なんか北朝鮮のような荒廃した独裁国で、ヤッターマンはすっかり
悪魔のようなになってしまったような描写だった。

そんなヤッターキングダムへ、純粋な心を持つドロンボーの子孫たちは繰り出してゆく。

ヤッターマンファンからすると、かなり衝撃的な世界観ではあるのだけれど、このアニメ、
第一回目を見ただけだと、先がまったく読めない。

ヤッターマンが悪の独裁者になったわけじゃなくて、実は違うという展開もあるかもしれないのだ。


正直なところ、あのキャラクターの画風はちょっと苦手なのだが、元祖ヤッターマンファン
として、もう少し様子みてみようかなと思う、展開は展開で気になる。

いろんなチャンネルで放映してるんだろうけど、東京に住んでいる人は日曜夜に
東京MXテレビでどうぞ。