母をたずねて三千里っす | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。



まだ幼稚園に入る前の頃だったと思うが、ある駅近くの祖父母宅に家族で行き、
祖父母に連れられて駅前のスーパーに買い物にいった。

だがその帰りに祖父母とはぐれてしまったオレは迷子状態になり、近くにあった歩道橋の階段の
中腹あたりでしゃがみこんでワンワンと泣いていた。

まだ幼かったとはいえ、何度か通っている道だったこともあり、ひとりで祖父母の家に帰ろうと
思えば帰れないことはなかった。おそらく「迷子」という意識よりも「おばあちゃんとおじいちゃんがどっかにいっちゃった」といった寂しい感覚で泣いていたのだと思う。

時間は昼間であり、その歩道橋もスーパーと駅の目の前だったので人は多かったが
階段の途中でひとりでしゃがんで泣いている4、5歳の子供であるオレを見ても誰も声をかけることはなかった。

眼を赤く腫らしながらワンワンと泣きながらも、様子をうががうように前を通り過ぎる人を
ちらちらと見た。
ネクタイをしめたオジサンや、手をつないだオトコの人とオンナの人などたくさんの人が
オレの前をチラ見しながら通り過ぎて行った。
その時、子供ながらに感じたことは通り過ぎながらオレを見てゆく人たちの目が
心配そうな眼ではなく、なにかとてもイヤなモノや目障りなモノを‘見てしまった’ような
目つきだったということ。

やがて、ひとりの優しそうなオバサンがオレの前で立ち止まって、
「ボク、どうしたの?」と声をかけてくれたのをおぼえている。

その時なんて答えたか、そしてどうやって帰ったかまでは正直憶えていない。
ただ、今でもオレの中でしっかりと憶えていることは
「やさしいオバサンが心配してくれた」ということと、
「たくさんの大人がボクのことをヘンな目で見て通り過ぎていった」
という2つだけだ。

はっきりいってしまえば、いくら幼少だったとはいえ、誰かに助けてほしくて泣いていたという
のもあったかもしれないが、そんな出来事により誰よりも早い時期にして「都会の無関心」と
いう空気を知ってしまったかもしれない。東京だけではないが人が集まる都会の空気と人の
温情というものはとても冷たい。それは大人になった今でも感じることだけど。
タイに冬がないように、ハワイが常夏のように……日本にはもしかしたら夏というものはない
のかもしれないな。今感じている高温は幻覚というかまやかしで、実は年中、氷河期なのかも。
(そういえば、オレは20代くらいまで「常夏の島ハワイ」という決まり文句を、ずっと「ココナツの島ハワイ」だと思いこんでいた。まったくカンケ―ないけど)
ある意味では、まさにクールジャパンだ。

長渕剛の「とんぼ」というドラマを見ていた人は多いだろう。
今でも有名な最終回のあのシーン。
新宿都庁前で、電話ボックスから出たあと、敵対することになった元組のやくざ数人に背後から
襲われ、これでもかというくらいに背中から血をピューピュさせ、時々倒れながらもまた立ちあがりを繰り返し、長渕演じる小川英二が街を歩いてゆくシーン。→ 「動画」

あの演出はもちろん劇的でセンセーショナルな映像にしたというのもあると思うが
長渕自身が主題歌「とんぼ」の中で「東京の馬鹿野郎が知らん顔して黙ったままつっ立ってる」
とも歌っているように、まさに「都会の無関心」というものを訴えかけているというのが
ヒシヒシと伝わってくる。

ひん死で血まみれ状態で這いつくばっている人間がいるのに、誰も助けようともせず
救急車を呼ぼうともせず、かといって「キャーキャー」騒ぐことすらしない。

目に入っていながらも普通にやりすごすのだ。
尾崎豊の「愛の消えた街」という歌の中にも、道端に倒れたように眠る人がいるけど、
誰もが不幸になるかもしれない自分を守るために見てないフリをするという歌詞があった。

とんぼ、すごかったなあ。
あんだけ血が出てるのもすごいけど、それをみてあれだけ冷静にいる通行人(笑)
そんな野次馬的な通行人に対して、ひん死の長渕が自分の履いていた革靴のかたほうを脱いで
野次馬に投げつけながらも、その勢いで前に一回転する場面があり、高校生の時、ヤンキーの友人が教室の中でそれをまねして、よたよた中腰であるきながら、唸り声をあげて上履きを投げつけ前転したのをみて、仲間内でゲラゲラ笑ったのを覚えている。どうでもいいけど。

そんなこんなで街には無関心な人間があふれているけど、同時に子供とか金持ちを狙った
悪人も多いというのがコワい。

「母をたずねて三千里」のマルコが現代に生まれた子供じゃなくてよかったと思う。
そして、アニメーションの中の人物で良かったと思う

今のように荒んで邪悪がはびこる世の中だったら、とてもじゃないけど「三千里」も
進み続けることはできないだろうと危惧するのだ。


それこそ極端な例で、
「じゃあ、ちょっとお母さんを探してくんねー!」といって玄関を出たとたん、幼少の男子に
歪んだ愛情を抱く変質者にさらわれてもおかしくない。

ある程度行ったところで、マルコの状況を知った輩が、長旅に出るなら子供とはいえそれなりの
カネは持っているはずと考え、襲ってしまうかもしれない。

あるいは襲われなくても、幼少のオレのように困って泣いたりしていても誰も手をさしのべて
くれないのではないか。
母の生活する場所までの三千里を踏破できるかということよりも、その間で待ち伏せしている
悪人にひっかからすに最終目的地まで行ける可能性のその少なさ……。

マルコ……、それでも君はお母さんを探しにゆくのかい?
ならば君の人生の先輩として、大人であるボクからひとつだけアドバイスしよう。

「自分以外、誰も信じるな」(笑)

インディアナジョーンズ考古学博士は、ドノヴァンからのこの忠告を破ったことで
忠告したドノヴァンが裏切り者だと知った時に
「博士、だから誰も信じてはいけませんぞと言ったはずですぞ、ふはは」
と言われたのだよ。


このアニメはホントに名作で感動もので好きだったんだけど、今考えると、
タイトルと主題歌で、いきなりもう泣かそうとしているな。
実はせっかちな感動アニメ-ションだ(笑)

しかもタイトルとテーマがもう、そのまま流れの答えになっているから
ずっと見てて次回はまた母がいるという噂の新しい街にたどり着くという流れだと知っても
結局そこに母はいないということも分かってしまっているオヤクソク的なジレンマ。

毎回観てその回のオチがくるたびに、わかっていながらも
「ああん、もう!またお母さんいなかったのね」と同情しながらも、マルコの万歩計が
三千里を提示した時、マルコの目の前にはお母さんがいるとわかっている安堵感のつり合い。
それが醍醐味。

それ以前に、万歩計って……三千里すべて歩いているわけじゃねえだろ(爆)

「母をたずねて三千里」と「はらたいらに三千点」はちょっと似てるのう。

おしまい