姫野カオルコ「ドールハウス」他 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

ドールハウス (角川文庫)/姫野 カオルコ
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世の中にはあらゆる言葉が存在するが、そのなかで最も殺傷能力と人間の繊細な心を破壊する力を秘めている言葉のひとつが「普通」という言葉ではないかと思っている。


「普通」という言葉は読んで字のごとく、それこそ「普通」もしくは「通常」「正常」という意味だが

冷静に考えてみると「普通」と言うモノに対する明確な定義もなければ、「正常」と「異常」の

はっきりとしたボーダーだってない。


そして、同じ行為、行動であったとしても、住んでいる家、もしくは土地、更に広く言えば国によって、それはごく「普通」であることか、それとも「異常」なのかということも習慣や文化によって

異なるモノとなる。


例えば日本には「刺身」という食文化があるが、コレに関して

「ナマの魚に醤油をつけて食べるのはありだとおもうか?」という質問を日本国内できけば

「あり」だという答えがあたりまえのように返ってくるだろうけど、同じ質問をアメリカでしたら

「そんなこと‘普通’に考えれば(なしだということが)わかるだろう」という答えが返ってきても

おかしくはない。


日本にとって普通であることは外国にとって普通でない場合もあると同時に、その逆もまた

然りで、外国にとって普通なことは日本にとって普通ではない場合もある。


向こう三軒両隣の国と、習慣や考え方が違うこともあるように、自分と周囲の人間との考え方が違っても決しておかしくないし、どちらがおかしいかなんて誰が判断出来ようか。


ただ、悲しいけどそこは大体多数決的な流れになり、多数派の意見を持っているほうが普通と

されることが多い。


そうなると、その多数派のほうは少数派に対して

「おまえの考え方はちょっと‘普通’じゃないんだよ」という言い方をしてくる事が多い。


この言い方の中の「普通」というところにさりげなく隠れた破壊力があるのだ。

言われたほうは、「自分はオカシイのか」と人格を疑われたような気になってしまう。


そもそも「普通じゃない」というが、じゃあ、その人間は普通の定義をどう考えたうえで相手に

対して普通じゃないと言っているのだろうか。

今まで遭遇してきて、そこに哲学的なモノを感じたことはない。

そういった人間がいうのは、それが正しいかどうかではなく、その人の考えがみんなと違うから

「普通じゃない」と言っただけだろう。

つまりは多数派=普通という発想だ。


自殺した天才漫画家の山田花子も言っていた。

「普通なんてものは存在しない。みんな『平均』を『普通』だと思っているだけなんだ」と。


そんな明確な定義のない「普通」という尺度を何かと言えば口に出して、少数派を批判する人間が多いのがたちがわるい。


仮に普通じゃないとしてもそれが悪いことだとは限らないのに、「普通じゃない」と言われたほうも

人間なんでそれなりに傷つくことが多いのだ。


オレはバカなんで、何か命令されたり頼まれた時に、自分なりに考えて慎重に動くのだが、何度も書いたとおり、何かとすぐ裏目に出たり、勘違いしてヘマしたりする。


そういう時、「そんなこと普通に考えたらわかるだろ!」と注意されたことが何度かあるが

オレは普通どころか自分なりに効率とか相手のことを考えて喜ばれるように慎重に、それこそ

「普通以上」に考慮して動いた結果がそれだったのである。


結果としてミスしたことに自らの非は認めるし、謝罪だってするのだが、そこで「普通」じゃないみたいな言い方をされると、「じゃあ、オレは何なんだ……」という自己批判に陥ってしまう。


オレのいう「平均が普通という世間の認識」が違うならば「普通」の規格っていったい何?


すげえ寒い中でバイクに寄りかかりながら歌われていたザ・虎舞竜の歌の一節じゃないけど

「なんでもないようなことが幸せ」だというように、幸せ=普通なのかもしれない。


今回紹介した姫野カオルコの「ドールハウス」に出てくる主人公もそんな「普通」の家族や

生活に憧れる女性だ。


――

たとえば、姉の食べ残しに弟が躊躇なく手を出せる―― そんなふつうの生活を理加子は

夢みている。軍隊にも劣らない強権な父親と、一度も家族を愛したことのない母親のもと、

理加子は大屋敷家ただひとりの子供として、‘石の歳目’を過ごしてきた。

‘不良になるから’という理由で、映画読書はもちろん電話、手紙に至るまで禁止されてもなお、

理加子は両親に逆らえない。そんな彼女の前に粗暴で強引な男性江木が現れ、次第に心を開いてゆくが……

(解説より引用)


厳しい家庭で育った女性が、とある男性に出逢うことと、家族とのいざこざの両面を描いた

せつない話。


こういうストーリーで登場する男は、どこか体育会系で、解説にも書いてある通り強引熱血な

同性のオレから見ていけすかないタイプが多いのだが、読んでいるうちにその登場男性には

好感をもてるようになってきた。

不器用な強引さの中でもところどころに繊細な女性への優しさが垣間見えてくる。


「単純に厳しい家庭の娘」ということと「お譲さま」というところに違いはあるものの

昔流行ったコンプレックスの「恋をとめないで」の歌詞の世界を何処か感じた。


砂糖水100%のような甘ったるい恋愛どっぷりのストーリーは好きじゃないけど

この話は決して嫌いではない。




今回のもう一冊。

これも最初に書いた「普通」だとか「個人(アイデンティティ)」に絡めた会話などが

登場する星野智幸の「俺俺」

俺俺 (新潮文庫)/新潮社
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メインとなる題材は「オレオレ詐欺」

そこから発生してゆく事件と、別の自分の増殖。

映像化もされたようだけどジャニタレ(主演)に興味ないから観ていない(笑)


すごく納得いったセリフのひとつに


「いつもおまえが悪いおまえが悪いと言われ続けていると、いつの間にか洗脳されて

悪いのは自分だって思うようになるけど、そういうのと違うの?」

というのがあった。

これもありがちで、最初に書いた「普通」の基準に関わっているような気がする。


普通という言葉を人に対して連呼する人間は一番怖い。

自分もしくは自分の考え方が「基準」であり、また「普通」だと思いこんでいるからだ。


この「俺俺」の中でもうひとつ納得したセリフ。


「自分たちの怪物性にまったく気づいていない。平凡な人間てのが一番の怪物なんだよ」


このセリフで共感した人は、オレと気が合うかな(笑)