下衆(ゲス)の条件 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

オレもろくでもない人間かもしれないが、決して下衆や外道ではないという自信はある。

以前に本の記事のほうで紹介したが、先日『藁の楯』の映画のほうをみて、ちょっと思ったことが

あるので今回は「下衆(ゲス)』という存在についてプチ哲学してみたい。

あ、文章序盤のほうで、いきなりラストのほうのワンシーンのセリフネタバレがあるので、これから見ようと思っている人は閲覧注意。


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まず最初に世の中に下衆や外道という人物は存在するのだろうか。

これが残念ながらするのだ。


認識されていないモノを表す言葉は存在しない。

存在するから言葉があるワケ。


生まれついての外道や下衆はいないと思うし、100%完全体の外道もいないと思う。

だが残念ながら80%の下衆・外道は実在するのが現実だと思う。


今まで生きてきたうえで皆さんも同じだと思うが、学校や組織の中でもそれなりのプチ外道を

相手に闘ってきたり、耐えてきたり、あるいは一方的にやられたりしてきただろう。


オレも小ボス中ボスくらいの外道・下衆相手には何度もかかわってきたから

日記に綴ってまとめれば、たぶん「外道戦記」と銘打って幻冬舎あたりから一冊の本として

出版できる(笑)


しかし、外道、下衆といっても明確な定義やボーダーが微妙であり、ただ正確が悪い奴を

下衆というのも大袈裟な気がするし、犯罪者だからといって外道下衆だとは言えないことも

あると思う。


また、映画や小説のよう娯楽の中に登場する下衆は、内容と物語によっては爽快で気分が

よかったりして、また、現実社会においては、最後の最後でイイ人だったと思われるような

人間こそが実は真のクズであって、今までそれに騙されていたのかもしれないというような

ことに気付いたのだ。


まず、娯楽作品の中における爽快な下衆の話。

(この下、映画の1部ネタバレ)


さきほど書いた映画『藁の楯』の作品中において、藤原竜也が連続して幼女を凌辱し最後に

惨殺するといった人間のクズである殺人犯を演じている。


その殺人犯は、本当に鬼畜なのだが、中盤で自分が殺されたり死刑になった場合に残された

母親のことを思い、涙するところを見せる。

しかし、その後の逃亡途中、民家の中で昼寝する幼女の姿を見かけ、新たな凶行に出ようと

するも大沢たかお扮する刑事にみつかり断念。


ラスト、裁判判決シーンで、死刑を言い渡された犯人役の藤原竜也は、裁判官から最後に何か

いいたいことはありますかと聞かれ、

「後悔しています…………

どうせ死刑になるならもっとやっておけばよかったと」

と答えた。


実在の凶悪事件裁判でこんなことを答える犯人がいたらきっと多くの人間が不快になるに

違いない。被害者遺族の感情を逆なでするというやつだ。

(実際、宅間守など似たようなことを言う凶悪犯はいるが)


でも、あくまで創作の中の殺人犯の発言としては、オレは気持ちよかった。

ありふれた映画やヒューマンドラマだったら、最後で改心して謝ったり涙して、終わりといった

定番だろう。

だが、原作の木内氏とヤンチャ映画監督三池氏の意図だかで、それを「やらない」

でもそれがよかった。

ある意味リアルでもあり、また下衆は最後まで下衆だという風刺が効いていてよかった。

しかし、これが実際だったら誰もが不快なんだな。

下衆のボーダーは難しい。


最後に改心とか謝るという例が出たところで、ここで現実の下衆はいかなるのかという哲学。


さっき書いたように映画やドラマの中で、ひどい行いをしてきた人間が最後の最後で死んだり別れたりする直前で謝罪や涙するというシーンは何気に実生活でもあるのではないだろうか?


よくあるのが今までずっと人を傷つけたり貶したりし続けてきた人間が、寿命にしても病気にしても、臨終の直前に病床から「「今まですまなかった」と謝るケース。

または転校やその他の別れで別れ際になって「今までごめん」とかいうケース。


こういうパターンに対して、だいたい言われたほうはそこにきて

「ほんとはいい人だったんだ!」と感動する場面が多い。

オレもそうだった。


でも、改めて冷静に考えてみると、素朴な疑問がユーボートの如く浮上する。


「本当にいい人」とは、最初から最後までずっと人を不快にさせないか、あるいは人間だから

ところどころ不快にさせることはあっても、そこはバランスよく同じくらい気分よくさせることもあるのではないだろうか。


ずっと好き勝手やってきて最後に自分が気持ちよく去りたい、死にたいからといってそこまできて

謝るというのは逆に「下衆」のようにも思えてきた。

(1つの考えだから批判しないでね)


だって、100秒数える間で99秒は人をバカにしたり騙したりしてて、最後の最後の100ですべて

チャラにして終わらせようなんてある意味ムシが良すぎるように思える。


ずっと好き勝手やってきて最後に涙した人が「ほんとはいい人」だとしたら、そいつにずっと

バカにされつづけても反論しなかった人間はなんなんだと。

その人間がいい人でなくて、なんで最後だけ謝ったほうがいい人なんだと。


これは決して日本人の悪い風習だとは思わないが、やはり日本人には

「死んだらチャラ」「死んだ人を悪くいわない」「死んだ人は許す」という概念があり、やはり

その力が作用しているんかとも考えられるし、「最後に謝るほう」ももしかしたらそれを意識しているのかもしれない。


もし、そういう計算だとしたらその下衆にとっての「死」「去りゆくこと」は反省ではなく、むしろ

「帳消しにするための‘逃げ’」ではないだろうか。



仮にもし、最後の別れ際もしくは病床の中で、本人としては本当に反省して涙を流し謝罪したと

しても、「本当にイイ人」の感覚をもった人であれば、もっと早い時点で気付いて、そんな野球で

いうフリ逃げのようなタイミングの謝罪はしないのではなかろうか。


むしろ、本心でそのタイミングにきて急に反省するような都合のいい計算が働く頭脳をもった人間ならば、それこそ真の下衆のような気もしてくる。


さんざん人を傷つけたり騙したりしてきて、最後になって謝りたいというのは、裏を返せば

「許させた状態で気持ち良く消滅してゆきたい」

「今までやってきたことを許してもらい、いい人だったと思われて消えてゆきたい」

ということでもあると思う。


それこそ、下衆の考えのように思えなくもない。


本当に反省していて、自分がそれなりに許されないことをやってきたと思うなら

「外道・下衆」という汚名を背負って消えてゆくのが大義ではないかと思わないこともない。

微妙だ……(;一_一)



もし、自分がそういう被害者遺族の立場だとしたら、加害者が最後までそう言ったら

それはそれで許せないとは思うし、一言くらい謝罪しろって激怒すんだろうけどな。


被害者側の視点にも加害者側の視点にもたたず、本当に哲学的視線で見ると

下衆は社会に下衆と認識されて消えてもらうのが本当の罰の思えないこともない。


自分で書いててむずかしい。

明日起きた時には考えが変わってるかもしれんし。


でもなあ……

一般的には下衆が最後に謝って消え去ってゆくシーンって感動モノとされてるけど

好きなだけ周りにひどいことしてて、ラストで謝ってチャラにして終わらすのって

やっぱズルイように思える(笑)


死刑が確実になったとして、執行直前に木嶋佳苗が世間に対して

「ワタシは間違ってました」と泣いたとしても、オレはそっちのほうが不快に感じそうな

気がする。

まあ、彼女はおそらく下衆のままだろうと思えるけど。



最後だけ謝る人間が、実はイイ人なら

最初から最後まで誰にも迷惑かけず、むしろ掛けられて行きてきたのを我慢してた人間の

立場はどーなるって感じだ。



おしまい