本当にしょうがないのか? | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

あらゆる方面の知り合いや、一度きりの顏合わせの人と現代社会の在り方について

討論すると、一部のレアな価値観共有友人をのぞいて、ほぼ

「いいたいことはわかるけど、社会がそうなのはしょうがない」

といった思考停止カードをだされて、そこでトークゲームは終了してしまう。


本当にしょうがないのだろうか?


この「しょうがない」という件についてはいくつか書きたいことがあるのだが思いつくところから

書いてゆく。


いまや、というか昔からあらゆるオカシイことや異常な感覚が氾濫しているし、これだけの

大人数が狭い島国にひしめいているわけだから、それは収集つかん。

(日本だけじゃなく他国も他国でしょーがない状況だろうけど、今回は日本に話題をしぼる)


現実問題として、たしかに「しょうがない」かもしれない。「しょうがない」まま行く可能性は∞だ。

いつもオレは綺麗事はキライだ!と謳っているが、どうにかなるんじゃないかという考えのほうが

綺麗事だろという声も頂くかもしれない。


でもよく考えてみると、オレがいらついているには、その「しょうがない社会」ももちろんだが、

その「しょうがない」を都合よく使い分ける人間と、社会に対してなにも発信しようとしていない

のになにかとあれば「それは社会がそうだからしょうがない」と言って、デモなり表現なりと

いった発信や活動をする人間を嗤ったり批判したりする風潮のほうかもしれない。


「都合よく『しょうがない』を使い分ける人間」について。

たとえば、ある個人がひとつの要件を任されたとする。

他人からみればすごく簡単な用件だったとする。でも本人からすればとても、難しいことだとする。

本人が「それは出来ない。しょうがない」と断ったりすると、成功させろとまでは言わなくても

「まず一歩踏み出してみろ」とか「ヤル前から決めるな」とかは言うだろう。


個人的にそういうアツい人間は好きではないが、言っていることは批判するつもりもないし

待ちがってはいないと思う。

ただ、個人に対してはそういう意見をアツく言うのに、これがまあ多少中二病的な言い方になって

しまうが、「世の中」に向けて良くするためとなると、熱血論から急にシビア派に寝返って

「それは一人がどう訴えたところで無理だ」というようなことを言いだす。


それもそれで間違っているとはいわない。

間違ってはいないが、腹はたつのも事実。


個人に対してのアドバイスと、いわゆる世直しとではそれこそ規模にかなりの落差があるが

結果が出るにしろ出ないにしろ、どちらも「小さな一歩」を踏み出せることはできるのではないだろうか?

その一歩を立場の弱い個人には強制するくせに、なぜそういう自分は社会に踏み出さない?


もちろん、その踏み出す以前に、その人間が今の社会に全く不満をもっておらず正常だと感じており、自分も周りの人間も誰もが幸せな生活をしていると思っているのならば、踏み出す必要がない。

でも多くの人間が、「不満はあるが、社会がそうなのはしょうがない」と言っている。


世の中に対してなにもアクションをしていない人間に限って、アクションをおこしている人をけなしたりもっと有意義な事に時間を使えという事が多いように見える。


アクションをおこさない人の言い訳としては、「やってもしょうがない」というのがもっとも多いのだろうが、あとは「何をしていいのかわからない」「仕事が忙しい」というのもあるだろう。


「何をしていいのかわからない」「仕事が忙しい」という2つの理由についても皮肉でもなんでも

なく、オレは全く理解できるし、そういうのもひとつの正解だと思う。

オレなんかにくらべて本当に死ぬほど忙しく時間が貴重な人も多いと思うし、アクションを起こし

たいけどどうしていいのかわからずなにも出来ない人もいると思う。

そういう人はそういう人でそのままで全く構わないと思うし、社会運動やアピールというものは

強制するももではない。だから全然責めるつもりはない。


問題なのは、理由があって一歩を踏み出せないのはかまわないが、先程書いたように

「なにもやらないのに、やってる人の行動を批判する人間」である。

社会に向けてなにも発信しないならしないでいいので、自分のことだけおとなしくやってて

くれればいい。応援しろとはいわないが、発信してる人を見守ってて欲しい。

やらないのに、ヤル人間のことを「ムダなこと」とか「幼稚」だとかいうのはやめて頂きたい。


そして、モノゴトについてまごつく個人に対して、失敗してもいいからまずは動け!と言うので

あれば、自分も社会改善に向かってどんなに小さなことでもいいからまず動けと。


「社会改善」とか「世直し」とかいうと、すぐ「それならまず政治を変えないと」という意見に

持ってくる人が多い。

たしかにシステムのハードウェアとなる個体は政治に間違いない。


でも、直接的に政治やシステムの歪んだプログラムを修正することが出来なくても、

「ここにこういう動きをしている人がいますよ」という信号を発信するだけでも、先を見据えると

歴史じゃなくても、その時に何かが動くと気がくるかもしれないとは感じる。


それは政策に関わることじゃなくたっていいんじゃない?


音楽が出来る人だったら路上ライブでもいいし、漫画が好きならそういう風刺漫画かいて

応募したり、街中で自分で販売したり。

そういう技がなければ気軽に参加できるデモにいって声をあげるのもいいだろう。

それでいいんだよ、だって‘小さな’一歩なんだから。

それで数日後に一気にかわるようだったら、日本はとっくによくなってるって。


言いやすい存在である周りの人に対して「まずは動け」っていうなら自分も社会にたいして

まずは何か動こうではないか。

さっき書いたように、それはカタイことじゃなくて柔らかいことでもいいから。


ずっと前にね、誰かが言ってたんだけど

高速運転してて渋滞に巻き込まれて完全に動けなくなった時に

「ちくしょう!なんでこんなに混んでんだよ!」と怒る人がいたけど、それは

「オマエみたいに電車使わずこうやって高速乗るヤツがいるから混むんだろ!」

と思ったというのを聞いた時にヤケに納得した。


それに近いニュアンスで、何かと「それは社会がそうだからしょうがない」という人がいるけど

なんで、そこまでしょうがない社会になってゆくかといったら、

なにもしないでそうやって、「しょうがない、しょうがない」っていう人達がいるから、ますます

しょうがなくなってゆくんじゃないかなって気もしてきた。


ここでも再三書いているが、オレは「絆」とか「人とのつながり」だとか言った言葉があまり好き

じゃない。

だけど、これは本心だから偽善だと思われることも覚悟で言ってしまう。


べつに進んで人に声をかけてつながってなにかやろうとか、直接改善につながる行為を

しようとしなくてもイイと思う。

自分が一番うまく出来る表現や行動などの軽い行動を単独で好きに始めるところからでいいのだ。


社会という大きな一枚の紙のうえを、たったひとりもしくはすわずか数名の手で
塗りたくったり、太い一本線を引くのは難しいかもしれない。

塗るにも力と時間がいるし、塗る分だけの墨やインクをもつことが出来るかという点でも難しい

かもしれない。


でも、わざわざ塗りまくるほどの力を身につけなくても、塗りたくれるだけの量のインクを調達

してこなくてもいいのだ。


ただ、その大きな紙の上にインクを一滴だけ、ポトっと落とせばいい。

落ちたインクの滴は紙の上で、ジワジワとすこしずつ周りに円のように広がってゆく。

あなたが落としたのがそのたった一滴でも、その周辺で同じように一滴だけ落としている人が

数名いれば、それぞれの落としたインクの輪がにじんで周りに広がってゆき、そしていつの間にか

つながり、気が付いたら自然に一体が黒一色に染まっているんじゃないかとオレは思う。

そんなもんではないのか。

各位が落としたたった一滴でも、それが散らばるように広範囲に多数落ちれば、それがおのおの

滲んでひろがり、そしてつながって紙のほとんどが別の色にそまっている。

そんなもんではないのか?


だけど、個人が相手の時はこれでもかというくらいに人の白い部分を塗りつぶそうとしてくるのに

一転して社会が相手になると、塗るどころかその一滴すら落とそうとしない人間が多い。


とどのつまりはソコなんだよな。


最後に改めてまた誤解にないように言っておくが、オレが強くいいたいのは全員、世の中改善

発信しろとか、それに参加しろとかいうことではない。

現実、「しょうがない」という部分が占めるのはある程度認める。


でも、個人だけには「どこどこを直せ」とか「まず一歩動け」とか言うのに

社会に対してはハナからムダだとか、非生産的だとか言って動かないというのはやめて頂きたい。


すべてに対して自分もまず一歩動くか、誰に対しても社会に対しても何も言わないかのどちらかにしていただきたい。


まだ一度しかいけてないが、オレのデモ参加や、文章表現というフィルターを通した社会的

メッセージ発信の試みもはっきり言って効率悪いかもしれないし、無駄弾に終わる確率も高いと

いうことはわかっている。


でもうごかない人間にはなにも言う資格はない。


多少の批判や嘲笑をうけようが、「なにもしない利口な大人」でいるよりかは

「自分に出来るだけの行動をする中二病」のほうがずっといいと思っている。

みんなで「しょうがない」と言ってたら、「しょうがない社会」がさらに加速するだけでは

ないのか?


それでも少しもピンときてくれないのなら、それはもう本当にしょうがない(笑)