カワグツ。 | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

今回のテーマはずばり「革靴」。

なんだかんだ言っても身だしなみや第一印象というのはとても大事である。

どんなにいいスーツやいいネクタイを身にまとっていても、足元が汚いとすべてを見抜かれる。

ビジネスマンや営業マンは大事な人のもとに出向く時くらいは、ちょっと無理をしてでもそれなりに高級感と上品さを兼ね備えた革靴を履いて取引先まで出掛けるべきで……




なーんて……


銀河系随一の『ヒネクレ者』であるこのオレが、そんな柄にもない能書きをここに書くわけがないだろう!

ちがうのだよ、革靴と言えばそういう方向にインテリぶったことを語る人間とオレとでは。

そもそも着眼点がね(笑)。

それをつらつら書いてゆく。前から書こうとは思ってたけどテーマが突発的すぎて自分でもそのタイミングがつかめんかった。


例えば電車の乗り込み、シートに座る。

向いのシートのほうに目をやると、上には草臥れた顔が横にずらーっと並び、その下を見れば

草臥れた革靴が同じように横にズラーッと並んでいる。途中、スニーカーなどもあったりするが。


電車の中に限らず、街の雑踏の中を歩いていても毎回思うことがある。

人々は「革靴」に対する意識というか「履かせてもらっている」という意識をどこまで持っているのだ

ろうかと。


動物愛護団体の人とかはよく、毛皮のコートやハンドバッグについて糾弾している。

それについてはオレごときが何か文句をいうつもりはないし、動物をかわいがるそういう人たち

の気持ちも充分理解できる。


また、それほど強く動物愛護に依存していない俺ら一般人の世界でも、昔から学校の授業や

家庭での教えで、肉を食べる時は「命をいただいている」ということを強く吹きこまれた。

おそらくほとんどの人間が経験あると考えられる。


だが、そこにオレの中でずっとつかえてきた違和感もあるのだ。



まず、前者に関して。

なにかと「毛皮のコート」とか「ハンドバッグ」は標的にされるけど、気のせいか「革靴」は全く

標的にされていないように思える。ベルトやビジネスカバンも同様

これには理由があるのか。


オレは革製品における細かい製造過程は知らないから、革靴に使用される皮について

別件で動物を殺したあとに残った部分を利用しているだとか、皮は殺さなくても採取出来るとか

いうのであれば勉強不足は素直に認める。

でも、‘剥いで’いることは間違いない。


それでも革靴は「動物愛護」とか「命」ということにあまりリンクされているイメージが沸かない

のだ。


それは「革靴」が社会において、あまりにも日常生活に浸透しすぎて、どこでも見かけるために

それがあるのが当たり前という感覚の麻痺状態に近いものなのか、それとも、革靴はもはや日本どころか世界において、労働にはげむサラリーマンやビジネスマンを支える重要な存在だという自事実が、そのまま「動物虐待」という意識に対する哀しき免罪符として認知されてしまったのか。


冷静によく考えてみるとわかる。


大勢の人が行き交う大通りを歩いていて、毛皮のコートを着ている人とすれちがうのはごくたまに

であるし、レザージャケット着てる人だって多くても十人の内の数人ではないか。


それに比べると、どれだけの数の革靴を見かける?

比べ物にならないだろう。



一方で後者のほう。


小さい頃はもちろん、大人になっても場所によっては肉や魚を食べている時に「命を頂く」と

いう言葉を耳にする。それはその通りだと思うし、全く否定しない。

だけど、自分含め、みんなサラリーマンや実業家になり、革靴や皮のベルト、皮のバッグ、

皮の財布、皮の名刺入れなどを持ったり持たされたり。

それこそ、足元からポケットの中まで皮で固めたまさに「皮戦士」である。


それは当然、それだけの動物が皮を剥がれているということではないのか。


そして、いい会社には入ったり、出世して偉くなったりすればするほど「もっといいモノ」を

身に付けないと格好がつかなくなる。


イコール! そのぶん、また素晴らしい皮膚を体にもつ動物が剥かれているということだ。


食に関しては、肉を食べなくても生きてはいけるが、でもある程度のパワーを補充したり

食を楽しむということでは肉を食べるのはしょうがない。もちろん「頂く」という心がけで。


でも、靴が皮であるのは単純に「見かけ」と昔からの根拠なき流れではなかろう。

(『食』同様、オシャレを楽しむということでは微妙なとこはあるけど)


社会人になってすぐのころ、安い合成のニセ革靴を履いていたら、「そんなの履くな」と

注意されたことがあったが、今、こうして記事を書いていて、改めて思うのは合成、ビニール靴や

運動靴のほうがサラリーマンにとっても良いのではないだろうか。


営業で朝から晩まで何件も外をまわる営業マンは靴底もかなりする減る程の運動だ。

機能性を普通に考えると、革靴よりも運動靴のほうが明らかに動きやすいし、スピードだって

アップすると考えられる。

運動靴じゃ見ためが悪いというならば合成ビニール。雨もはじくし手入れもラク。

そして、動物も必要以上に皮をはがされずにすむ。


「ニセ革靴」もしくは「運動靴」を一般的にしたほうがサラリーマンと動物の双方にとって

優しくもあり、効率的でもあるのだ。


さて、例によってオレがモノゴトの伝え方がととても下手なんで、またオレの考えを誤解してる

人もいるかもしれんから、ここで要点をまとめよう。


①毎回言うが、オレは無宗教。


②動物愛護団体の人を否定してるわけではない。


③オレも肉を食べるから、動物を喰うなと言っているワケじゃない


④オレも革靴を履くし皮ジャンも持ってるから、皮製品を纏うなと言っているわけじゃない。


⑤「命」がどーだこーだとかいうつもりもさらさらない。


一言で言えば、肉料理や他の皮製品に関してはそれなりに多くの人の意識のどこかに

「命」という概念があると思うけど、「革靴」に関してはその意識が少ないのではないかと

感じていただけ。

これは履いている本人だけでなく、老若男女問わず街中を歩いて革靴を目にしている全ての

人に対して。


難しいな。偽善ぽい言い方になるけど革靴に対する感謝とでもいうか。

それこそ肉を食べるときに「命をいただきます」と感謝するような。


こう書くと、ちょっとアブナイ奴になりかけそうだけど、オレは毎回革靴やブーツを履くその前に

彼らのおかげで外を歩けるといったふうに心に中で少しだけ靴に感謝している。


ジャケットやコートなど、腰から上あたりに纏う皮製品は、まわりの人や道行く人からも比較的

オシャレ道具として注目される。

でも、似たり寄ったりのサラリーマンの黒革靴あるいは茶革靴はあちこちに当たり前のように

氾濫しすぎていて、よほどオシャレなものか奇抜なデザイン出ない限りはほとんど注目されない。


それどころか、満員電車では隣の‘仲間’に踏まれたり、水たまりの中にダイブさせられたりと

まさに踏んだり蹴ったりの汚れ役。


でも、そんな彼らが与えてくれた皮のおかげでオレもアナタも、外を歩けるのだ。

スーツにスニーカーで出社できますか?(笑)



過去に「タイタニックは沈まなかった」という記事で、ある違和感を書き綴った。

読んでない人はコチラ を。


映画の「タイタニック」において、そもそも船が沈んだ原因は、主役であるジャックとローズが

人目につく甲板でイチャイチャしていたからではないかという持論を書いた。


書いたには書いたが、オレ自身もアノ映画自体はとても面白いとおもったので、

映画を評価する人や、ジャックとローズが可哀そうで泣いたという人を否定する気はまったく

ない。

面白いという声も可哀そうという声も当然理解できるが、それはそれとしても明らかにおかしい

部分に誰もつっこまないどころか気付かないということのほうに違和感があった。


今回も言いたいことはそれに近い。


「着るな」「喰うな」「殺すな」と言ってるわけじゃなく、着ても喰っても、必要性があれば殺しても

いいけど、革靴の存在が当たり前になりすぎてて、そこにも命が使われていることも

忘れちゃいませんかということ。それだけ。


最後に改めて言っておくけど、オレは聖者でも良識者でもなんでもない。

ただ差別が嫌いなだけ。


だから極論、

これから先、

「皮ジャンまとって、ステーキとハンバーグを食べにいったぜ」 とかいった記事を書くことも

あるかもしれないけど、それはご了承を(笑)