ライターズハイ | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

まずいかもしれない……

ビミョーにまずいかも……


今、執筆している3作目の小説を出す賞の応募規定が400字詰め原稿用紙50枚~300枚で

締め切りが12月の上旬。


今回書きたいと思ってた話の構想が、原稿用紙100枚前後ではとてもおさまらないので

前に出した文学界新人賞への応募は断念。枚数が250~300枚まで可能な賞に出そうと思って

新たな文学賞に向け執筆を始めた。

(どの賞かは時季を見て報告する。あまりご興味ないかもしれんけど)


書き始める前は「100枚じゃ足りない」と思っていたけど「250枚」もあれば十分すぎるだろうと

プロットやオオマカな構成を組んだ上で、いざ執筆してみたら、終盤のもっとも重要なシーンにつく前に、もう230枚ほど枚数を使ってしまった……。テレビの生放送で言えば「オシ」みたいなモン?


自分で推敲(見直し)する時間や、選考の下読みにしっかり読んでもらう手間まで考えて

もともとギリギリの枚数いっぱい使うのはやめて250枚前後でまとまるようにようと思ったが

このままでは、世界観が収まりきれずに300枚使ってしまうことになる。

300枚突破してしまうかもしれない。オーバーだけは出来ないから、そうしたら、ひとまずは

枚数気にしないで最後まで書きあげて、そのあとに添削して300枚まで減らして調整するしかない。


当初の予定の250枚程度だったら、脱稿(書きあげ)と推敲の時間含めても締め切りの12月上旬まで間に合う手筈だったが、これが300枚となって、さらに書きあげたあとに推敲する時間を考えると、締め切りに間に合うかもかなりタイトなペースになってきている。


以前、「仕上げ時期よりも内容が重要なので、納得いかなけれが応募を一周遅らせる」と

報告したが、ここまで書いたらなんとか次回の12月には仕上げたい。

一周おくらせると次はもう一年後である。


そういうペースの濁流にのまれていることにより、この週末はいつもより長めの時間、

パソコンの原稿画面と向き合って、ウーンウーンと唸っている次第。


1作目執筆時にしても、2作目執筆時にしても、全体の2/3くらいまで書いたら、もう次に書く作品

の具体的な骨組みを作る動きにも同時に掛かっているので、そろそろ次の作品の構成にも

かからないといけない。

実は、もう書こうと思っている話の候補は2つほどあり、どちらを先にするかというだけだが

選んだ話によっては、これからNPOやボランティア関連の参考文献も読まないといけないこと

になる。



正直、一時かなりペースが落ちた時があって、パソコンに向かいあってても、うまい文章が

出て来ずに、2時間向かいあってて、原稿用紙1枚の半分くらいしか書けない状況にハマった

時ができた。

書きたい内容も進行も出来あがっているのに、それを小説らしく文学らしく文章に変換して

文字におこそうとすると、なかなかふさわしい表現というか、それらしい文章が出て来てこない

のだ。ただ状況やセリフを書くだけだと、○○は△△だと思った……のような小学生の日記みたく

なってしまう。そんなのは子供だって書けるわけだ。


プロ、アマ問わず、このように作家が急に何も書けなくなってしまったりする状況を

「ライターズ・ブロック」と言う。

何かに進行をブロックされたように急に書けなくなる。アマチュアでもモノを書く人間はハマること

が多く、これにハマってペースが遅れてしまった。


作家の状態を表す似たような言葉は他にもあって、自分で書いておきながら

「オレ、こんなこと書いたっけかな?」と思うようなことは

「ライターズ・アムネジア(執筆者健忘)」

という。これは今んところまだ平気。


あと、もっとも必要なのが

「ライターズハイ」


これはまるで何かにとり憑かれたかの如く、急にスラスラとペンが快調に滑り出して、どんどん

文章が書けてゆく状態である。


マラソンランナーが走っているうちに辛くなるけど、一回限界を超えたら気持ちよくなって

そのままどこまでも走り続けたくなる状況を「ランナーズハイ」と言うそうだが、それの作家版。


ライターズブロックになる時もあったぶん、ライターズハイになって一気に数枚進んだこともあったので、なんとかまだ終わらせることが出来るペースではある。


書いているうちに脳内のアドレナリンがピューッて沸いて出てきて気持ち良くなり文章がすすむ

ライターズハイ。

今、このブログを書いてても、それなりに行数使ってるから、ライターズハイゾーンに入ってる

かもしれない。


努力でもセンスでもなくて継続こそ才能と言われているということは前に書いたけど

このライターズハイをもっと継続させたり、頻繁に引き出せないと、まだまだ才能という面では

甘いんだろうな。

文章に行き詰まるということは要するにまだまだ勉強不足で読書量も執筆時間も全然足りていないということだ、これが反省材料。


でも、3作目まで来て、いっちょまえにハイにもブロックにもかかるようになってきたっていうのは、逆に言えば書き始めのころよりも、それなりにモノ書きに近づいてきたのかなとも思う。


これは一度でも本格的に中編や短編の物語を書いた人でないとわからないことだと思うが

小説を書くときうことは、世界を表現することはもちろん、執筆にあたって、ホントの最低限の規則をまず覚えてからではないとスタート出来ない。


ここからは、これまでの所感や、素人が本格的に物語を編んでゆく状況をオハナシしてゆこう。


まず、オレは応募するべく、しっかりとした小説原稿を書くにあたって、書き始める前に

三日間びっしりと書き方について勉強してから執筆を始めた。正確に言えば、今でもまだ

はっきりわからないとこがあるから、同時進行形で勉強している。


例えば、文書中にて、よく出てくる 「……」

これは「3点ダッシュ」という名前なのだが、正式な使い方があり間違ってはいけないのだ。


「…」はかならず2コセットで使用するか、2の倍数で使わなければならない。

一般の人(オレも一般だけどw)が単なる趣味で書いた小説やブログ小説では、たまに

「○○はそう思った…」

「○○は言った………」

といったように表されたりする。もちろん応募とかでなく趣味でやってるだけなら自由だ。

でも、これが正式な執筆だとNGになる。


「○○はそう思った……」か

「○○はそう思った…………」が正解なのだ。


「…」がひとつ(3こセット)、もしくは奇数というのはない。


これは基本中に基本で、ずばぬけて素晴らしい作品を書く応募者だったら、間違えていても

まずは選んでもらって、それから指摘されるかもしれない。

でも、相当惹かれる作品でなければ、それなりにいい話を書いていても、そこが出来てないまま

長文が続いていたら、それだけで落とされるかもという、モッタイナイ結果になる。



あとは「人称」の書き方も注意とタブーが存在する。


オレのような初心者が一番書きやすいのは一人称。

つまり主人公が「オレ」「僕」「わたし」で、その目線での語り口調で話が進んでゆく書き方。


あと「二人称」もあるが、多様される別の方法は「三人称」。

これは「神の視点」と呼ばれる書き方で、登場人物ではない第3者がナレーションのように

物語を語ってゆく方法。


「一人称」にも「神の視点」にもルールがあって、どちらにもメリットとデメリットが存在する。

心境をつづってゆく純文学では「一人称」が良いし、東野圭吾や湊かなえのようなエンタメ小説

においては「神の視点」のほうがベスト。


まず、「一人称」で書く場合は作者が主人公みたいなものなので、主人公が見たこと聞いたこと

だけでなく、心の声のような心情的なものも書ける。ただ、あくまで視点が主人公1人(自分)なので、他の場所で起ったことや、他の人物が起こした行動などは書くことが出来ない。

東京にいた人間が、同じ時間で北海道の友人におこったことがワカルわけないから。

推理ドラマや群像劇だったら、文章中の流れで

「一方、その時間に山田山男は殺した友人を埋めている最中だった」とかいう文章があるが

一人称ではこれはタブーで出来ない。あくまで本人が実際に見聞きしたことだけ。


いっぽうで三人称の「神の視点」であれば、文字通り、天からいろんな人間の様子を見ている

ようなナレーションなので、何処で誰が何をやっていたのかということは問題なく書ける。

表現範囲は広い。

だが、デメリットとしては、あくまで第3者のナレーション(説明)なので、登場人物の心の声は

書けないのだ。


たとえば

「山男は空を見上げた」というのは動作なので書くことが出来る。

だが、「山男は空を見上げて、血のような夕焼けだと思った」とは書くことが出来ない。

「神の視点」と言っているが、要するに第3者の説明なので、そう思ったかどうかというのは

第3者が知るはずがないのだから。どう思ったか知るのはその登場人物本人だけである。


その辺に関しては「一人称」のほうが使いやすい。

主人公(本人自身)なのだから、心の声でもなんでもかける。

言いたいこと伝わっただろうか?


文法だけでなく、このような表現方法もいろいろあって気をつけなければいけないので

小説を書くというのも、ただ面白い筋が思い浮かべば書けるというようなお気軽なものでも

ない。


中編を書いてると、自分で書いた話の流れの矛盾にも気をつけなけらばならない。

実際にヘマこきそうになった話。


物語の中で、主人公が大雪の中、高田馬場駅で降りてコートの襟はやや立てながら

黒いマフラーをきっちりまいて革靴で家まで帰るシーンを書いていた。


家に帰ってからのシーンを書いている時に、なんとなく思いつきで話に味付けしようと思った。


温かい部屋に入って、とりあえずテレビをつけたらプロ野球がやっていて、あまり興味ないけど

なんとなく画面を見ていたというような文章を書いた。


これ、どっかオカシイのお気づきだろうか?


書いて少ししてから見なおして気付いたのだが、東京で雪が降る時期はどんなに早くても

12月、おそくても2月。雪が降る季節にプロ野球はやっていない。

あぶなかった。すぐ書きなおした。思いつきで演出するもんじゃない。


作家に限らずに表現者の作風というものは、たいたいの割合で独学であるべきだと思うし

実際に多くの人がそうだと思う。個性びちまけてナンボだから。


ただ、「マネ」をするとか「習う」とかいいうことでなくて参考程度や励まされるために

作家が書いた指南書みたいなものも読んでみたりする。

作風は個人の出すべきと思うが、最低限の規則などはシッカリを聞かなければいかんから。


新宿鮫の大沢在昌の本は勉強になる。こういうものを書けというのではく、これは気をつけろ

ということを教えてくれる。推理作家志望の方は読む価値アリなんでおススメ。

小説講座 売れる作家の全技術 デビューだけで満足してはいけない/角川書店(角川グループパブリッシング)
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あと、数年前にかなり話題になった中谷彰宏。

この人、当時はなんか石田○良みたいなトレンディ―作家みたいで好きじゃなかったんだけど、

この本読んで、なんとなく好きになった。

ノウハウ本ではなく、モノを書くのが好きな人間は励まされるような本で、書いていることが

自分に当てはまっていると嬉しくてヤル気になる。


人は誰でも作家になれる―最初の一冊が出るまでの101章/ダイヤモンド社
¥1,121
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・「一冊の本は、意地と体力と感謝と殺意で生まれる」という章がある。


体力というのを忍耐力というふうに置き換えればオレに当てはまっている(笑)


ドストエフスキーは借金に追われて、それを返済するために本を書いて名作を生んだ。

何かに追いかけられていたり、追い詰められたりしたり、復讐心を持っている人間でないと

名作は書けないという。

中谷氏も本が出る前は、編集長を殺してやろうかと思っていたらしい。

幸せな人間は、もうその現実に満足してしまい、不満もなくそこに落ち着きたいから

何も訴えたいことがないから、名作はかけないと。


これは作家だけでなく、ミュージシャンや映画監督とかも同じだね。

貧乏や社会への怒りをパワーにして売れるロック歌手もいるし。

中谷氏も、もし作家になっていなかったら、自殺をしていたか殺人を犯して死刑になっていたと

書いている。これは大袈裟でもないと思う。表現者とはそんなもんだ。



・「口下手で優柔不断な人が作家になれる」という章。


話すのが上手い人は言いたいことを発散してしまうので逆に書けないという。

行動力の無い人や決断力にない人が作家に向いているようだ。

アナタはどうだろうか?

文章を書くことは、ああだろうか、こうだろうかとくよくよ悩むこと。

一気に答えが出てしまう人は機械的なので、文章は書けないというか、新しい発想は生めない。

この賞だけでも励まされた人も多いのでは(^.^)。


あ、あと「不器用な人」も向いているとか。

なかなか適応できない居心地の悪さこそが、作家の感性だって!!


ほかにも紹介したい章がたくさんだが、多すぎてしきれないので、なくなく割愛。

この本は作家志望や文学賞応募者以外にも是非読んでほしい。

世界が広がる。


中谷氏も本の中で、作家以外の友人にも文章を書くことを勧めていると言っていて

そのキモチはよくわかる。


たとえそれが虚構であれ、俗悪であれ、自分の世界を作れる人間、持てる人間ていうものは

人間テーマパークのようで面白い。


オレが興味あるのは自分の世界を作り上げることが出きる人間だけ。


人が作った問題集をスラスラ解いて行ける人間なんかに興味は無い。

興味あるのは問題集自体を作ってしまう人間。


はっきり言ってしまえば、良い悪い好き嫌いは別として、人間的にはIT企業の寵児と言われる

社長よりも木嶋佳苗被告や宮崎勤死刑囚のほうがずっと興味ある。


作家の田中慎弥も初エッセイの中で、私には書くことしかできないし、書いた作品の責任しか

とれることは出来ない書いていた。

夢や希望がなくても生きて行けると思っていたとかいう田中節は脳天突き抜ける爽快。

これからもそうだ。/田中 慎弥
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足を踏み入れてみて、改めて分かったことだが、ひとつの物語をまるまる最初から考えて

さらに凝った文章で書き綴ってゆくというのは大変な作業だ。

世に出る可能性の少ないことに、ここまで注ぎ込むのはとてもパワーがいる。

ほんとに趣味の延長にようなものだと思われたらたまらないくらいに書くのがたいへんだ。


ただ、純文学を書くと言うことはある意味で自分の世界を表現したいという要素も入っている

ということは否めない。

単純な自己満足で終わるのではなく、どれだけ他人を吸いこますことが出来る自己満足を

演出出来るかというところが裁量であると思う。


いくら自己満足で、たとえ受賞したり、出版される可能性がゼロに近くても、世に出るべき

賞を目指して書いて応募する限り、オレは趣味レベルでなく真剣に考えて文章を作ってゆく

つもりだ。


どうせ難しいんだから、それほど力入れなくてもいいし、そのぶん、他の事に力いれれば

いいだろうと思う人もいるだろう。純粋に自己満足で書きたいことをテキトーに書けばいいという

考えの人もいるだろう。


だが、これが自費出版だと思って考えて欲しい。

自費出版はあまり実力とか才能とか関係なく、おカネを出せば自分の本を並ばせることが

出来る。

それこそ力がなくてもカネがあれば、単純な自己満足で出来るやり方だ。


間違いなく出版されて、その費用も本人持ちなんだから、たいして考えずに鼻くそほじりながら

片手で書いたようなつまらないモノでもいいだろうと言う考えもあるかもしれない。

たしかに費用は本人持ちで、出版社もそんな負担はないかもいれない。


でも、そんな本でも書店で表紙を見かけて、気になって、おカネを出して買ってくれる人が

1人でも入るかもしれないというのも事実だ。


出版社、書店と作者の間でのカネの流れが別にいいとしても、読者は自分のカネで買う。

そういう人たちにテキトーに書いたようなつまらない本を高い単価出して買わすと言うのは

失礼だと思う。


だから、オレは例え受賞したり出版される可能性が0.0000001パーセントだとしても

全力で書く。

本気で書いたものを読んでもらってつまらないと言われたなら、それはしょうがない。




現在言うまでもなく、出版市場は縮小してきているが、本を書こうとしている人は増えてきている。

嬉しい事だと言えば嬉しいが、ライバルは激増している(笑)



そういや、上に紹介した田中サンのエッセイの中で田中さんがこう言ってた。


「純文学が不良債権だと言う人がいる中で、私はその純文学を書いてゆきます」


……うまいこという。そしていい事言う。


純文学は不良債権か。なるほどね。

今の世の中、そう思っている人、多そうだわ。


「暗い」「汚い」「落ち込んでゆく」そして「生産性がない」



利益主義の人にとってはおそらく「啓発書」とかが生産性があったり士気を高める書で

体育会系の人や活動的の人にとっては「エンタメ小説」のような起承転結がある誰でも

楽しめる書が共有性があって人々を楽しませるものなんだろうな。

もちろん、全員がそウ思ったりはしてないのはわかるけど。


そんなたくさんある本の中で、登場人物が心の闇をひきずってブツブツ嘆くような暗い小説は

明るい人や器用に生きて行ける人にとっては非生産的な不良債権なのだろう。


ふ…… 面白い!(`∀´)



そんな世間に対して、オレも全力でドンドン不良債権を生み出してゆけるように

心がけてゆこうではないか。


執筆をし始めて、書くことに対する意識が変わってきた。


オレが書く理由は‘夢’でも‘金’でもない。


‘義務’である。




ふ~~ゥ、ずいぶん長く書いてしまった。

これもライターズハイかね。


┐( ̄ヘ ̄)┌