重い世情オムニバス | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

前回が【陽】のオムニバスだとしたら、今回は【陰】のオムニバス。

あえて「書きづらい」「みんなが避ける」「コメントつきにくい」世間のテーマを語ってみます。


①『離婚』


たとえば「離婚」という事象について語るなら、

結婚同様経験した事の無い人間が否定する資格は無いと思う。

いや、否定する理由自体ないと思う。

むしろ結婚より離婚のほうがありふれてるのではないだろうか。


数年前に旧友のブログを発見して読んでいる。

文章内容やプロフィールから結婚して子供がいることと、とても家族の中が良いことが

わかる。奥さんのほうもブログをやっていて、リンクが貼り付けてあり、オレは奥さんとは

面識がないが、ダンナである知人のことが書いてあったりするんで、そちらも読んでいた。


ずっと2つのブログを読んでるうちに、ここ最近なんとなく様子が変わった気がした。

プロフィールの長所短所とか、マイブームとかが微妙に更新されてるのだ。

生活に変化があったとか写真が変わったとかいう明確な紹介はないが、なんとなく書き手側の

「気分一新」したいというような心境が伝わってくるのだ。

いろいろなところを読んでチェックしてみると、どうやら「離婚」したことがわかる。


ともにリンクしてブログで家族のこととかを書いてて、まず別れないだろうというくらいの雰囲気

の家族だんらんブログだったのに離婚したようだ。

ちょっと先というのはわからない。


ただ、オレは独身なのだが、ここ最近、この同級生も含めてオレの周りで離婚が異様に多い。

年賀状とか来た時、今まで差出人が家族連名だったのに、急に1人の名前だけになってたり。


大学卒業後くらいから、結婚したと言う報告はけっこうアチコチから聞いてきたが

実際結婚したカップルの中で、ずっと続いてる組より、別れた組のほうが多いと思う。

オレの周りでは。


重ねていうがオレは結婚も離婚も経験ないから、わかったようなことは言えないが、

この状況から推測すると「結婚」というものは相当難しいモノではないかと捉えられる。


いや難しいんではなくて、1,2回は離婚するのが普通なのではないだろうか。

いろんなケースがあると思うが離婚は決して悪いとは思わない。

そりゃあ、某お笑い芸人や有名映画監督みたく4回も5回もしてるのは問題あるかと思うが

1、2回は普通ではないだろうか。


結婚という形式をとっている生物は人間だけ。そして婚姻届を提出したからと言って

市役所の届けた瞬間、神の手により2人の血がつながるとかいうわけではない。

簡単に冷めた言い方してしまえば。単なる「書類上」と「形式上」ということだけである。


ついでにもうひとつ言ってしまうと「不倫」もそれほど悪いとは思わない。

(別にオレがしてるわけでもないし、推奨してるわけでもない。念のため)


中には、「不倫したいから結婚する」というような不倫をオシャレな火遊びみたく捉えてる

人間もいるが、それは例外で擁護の余地なし。


ただもともと不倫なぞするつもりもなかったけど、最初の人と結婚したあとに、さらに魅力的で

価値観が合う人が現れたら、惹かれるのはやむを得ないことでもあるかとも思える。男女問わず。

だらだら二股でゆくか、きっぱりケジメつけてくっつくかというとこは大事かもしれないが。

「されたほうの気持ち」もあると思うが、それはまたちょっと別次元になる。


そういう考えや、周りに実情を見てると、最初に結婚した人とずっと一緒というのがそれは

「ベスト」に違いないが、やはり人間の価値観の違いや状況の変化というのは当然発生するもの

であるからして、確率的に1,2回の離婚経験というのは「ベスト」ではないかもしれないが

「もっとも普通」ではないだろうかと思えてきた。

これは未婚者の観測的思考なので誤解まねくところがあればお許しいただきたい。






②『自殺』


たとえば「自殺」という事象について語るなら、

まず良く聞くセリフが 「自殺はいけない」「生きていてもいいことはある」

「残された人の気持ちを考えろ」などがある。


これらのセリフは間違ってはない。間違ってはないが、あってるとも言えない。

まず、それぞれのセリフの理由を完全に納得いくように説明できる人間はいるのだろうか。


「生きていてもいいことはある」・・・

たしかにいいこともあるかもしれない。でも、もしかしたら死んでからのほうがいいことがあるかも

しれないという疑問はないのだろうか。

たとえば、そのセリフを言った人間が一度死んであの世にいった。が、この世より全く面白くなかったと思った。そして何かのキッカケで息を吹き返し、この世に舞い戻った時に経験談として

「あの世よりこっちのほうがいい」と言ったというなら理解できる。


オレは無宗教なんで別に天国や極楽があるとは思っていない。だが、「ない」という証拠もない。

ずっと幽霊を信じていなかったが、実際見てしまったらもう信じるしかないように、

もしかしたら、「天国」「極楽」ではなくとも、宗教的理屈でなくとも、この世よりずっと楽しい空間が

ないという断定は出来ないのだ。誰かそれを証明出来るのだろうか。


世の中の人々は何かと「やってみてから言え」「やってみないとわからない」というが

それこそ死んだ方がいいか生き続けたほうがいいかだって、「やってみないとわからない」のでは

ないだろうか。


実際やってみたわけでも死んだあとを経験したわけでもないのに「生きていたほうがいい」という

のは、それこそ自殺よりもタチの悪い無責任発言ではないだろうかという気がしないでもない。


「残された者の気持ち」というのも間違ってはないが論点が少しずれてると思うのはオレだけか?

たしかに残された人はつらい。一生傷を引きずる。

でもオレが言いたいのは「残された人がどうでもいい」ということではない。

「残された人間」もすごくツライだろうが、でも一番ツラかっただろう人間は「自殺した本人」である。


この「残された人間論」についてちょっと前に朝日新聞がとりあげていた。

未遂で重体になったが、なんとかこの世に帰還した人の話だ。


当事者からすると「遺された者にすまないと思うならとどまれ。死ぬ覚悟があるならなんでも

出来るはずだ」という声は自殺と八方ふさがりのリアルを知らないゆえの小理屈だという。


その未遂者によると、何やら黒いモノに追い詰められて、それどころではないらしいのだ。

もう、残された者のことや出直すことなど考えられないことまで追い詰めらてるから踏み込んで

しまうと。


別の人の記事では、残された者の気持ちも考えるが、それでもとどまることが出来ないほど

もう追い詰められてどうしようもない現実があるというのもあった。

つまり、本人自体も自ら命をたつのはつらいし、残された者への申し訳なさも背負って死なないと

いけないという2つのオモリを持たないといけないと。


今でもこの国では年3万人が命を絶っている。3万人といえば地方都市の人口と同じである。


誤解しないで頂きたいが決して「自殺推奨」なぞしてないし、しようとしてる人間を止めるなと

言ってるわけではない。

ただ「遺された者」という声は、実は一番の被害者を二の次にした意見だと感じることだ。

受験失敗や失恋での自殺は甘いと思うが、真面目にやってきてうまくいかず自傷してしまう

人もいる。


一番悩み続けてきた被害者は「自殺した本人」なのだ。遺族はその次だ。

そして自殺者の行動は「逃げ」の場合もあるが大多数は「抗議」である。

その「抗議方法」は間違っているかもしれない。

だが決行してしまったあとは、もうその「抗議」を活かしてあげないといけないのだ。

そうしないと、まさに「無駄死に」というやつだ。


「遺された者の気持ちを考えない行動」に走ったのではない。

「遺された者のことを考えても、そうするしかなかった状況」

また「遺された者の気持ちを考える余裕も消されるくらいまでの状況」まで

追い詰めた環境、もしくは人間の存在があったはずだ。


自殺を考えてる人間に対し、「死ぬな」と責めるのではなく、

そういう要因を作り出したシステムや人間を見つけ「死なせるな」というのが先ではないだろうか。


死んでしまった人間をひとくくりに「弱虫」だとか「逃げ」だとか責めるんではなく、その人を

そこまで追い詰めた原因を突くとめないと、この連鎖は止まらない。


一番つらい思いをして、悩んで我慢して、痛い思いして自決した可哀そうな被害者は

遺族ではない。亡くなった本人だ。


それと「なぜ自殺はいけないのか」ということをしっかり語る時間を作るのも大事だ。

「理由も何もそんなのダメに決まってるだろう!」というのが一番説得力に欠ける。

導き出せるものが正解でなくともいいのだ。押しつけや既存のモラルだけでなく、そういうのを

議論できるということが大事。

日本人を見てるとつくづく思う。カルシウムでなく「哲学」が足りない!




③『戦争』


たとえば、戦争という事象を語るなら、

最近のニュース番組、

画面下の隅にワイプ?で防衛省に配備されたPAC-3の映像が写っている。


日本がこれだけ警戒してるぞという映像で、それがアノ国でも流れてるとすれば

それはもう挑発の思うツボではなかろうか。

こんだけビビってるぞというような。


また、そのワイプのカメラ、つまりPAC-3をずっと撮らえているマスコミは実はアノ国の

ミサイル発射を望んでいる気がしてならない。

ミサイル発射されて、PAC-3からも迎撃ミサイル発射映像が撮れれば、それはひとつの

スクープだとふんでいるんではないだろうか。


いやいや、メディアだけではない。実は国民も心のどこかで戦争を望んでいる。

「死にたくはない」けど戦争は「望んでいる」のだ。


いわゆるゼロリセット願望というもの。

富裕層の人たちは今まで築き上げてたものや貯めてきたものが全て焼けて灰になるのは

いやだろうが、現代において不遇にある若者などは「希望は戦争」と思ってる割合が低くは無い。


ここで戦争が起きてすべてが焼け野原になれば、すべてがリセットされるのだ。

ホームレスも中流者も長者もすべてプレハブに住むのだ。

その感覚はいたって正常といえる。


だが、実際に他国が相手でなくとも、ミサイルなどの武力が飛び交わなくても、既に内紛は

始まっている。海の‘コチラ側’で。


米軍に完全に安全を任せ、資本主義に目がくらんだ日本はバブル時期、「カネ」という武器で

海外の企業や美術品を買いあさった。文化の侵略である。


だが、その後急激に他国に力を付けられた日本は、今までのように外国を奴隷として扱うことが

難しくなり、国内に奴隷を作りだした。それから崩壊と内紛と勘違い暴走が始まった。


他国にいろんな面で勝つには過度の競争力が重要と勘違いしだしたのだ。

そして、その競争が排除を生み格差を生み、国に対する不信感と犠牲者を生みだした。


ひとつまえの「自殺」の記事とリンクする内容になるが「自殺と文化」という本のなかで

戦争中は自殺者が減るが、戦争が終わって平和になると自殺者が急増するという統計がある。


それはさきのゼロリセット願望に通じ、みんな平等にカオスだったら生きていこうという気持ちに

なるが、逆に平和だが、そのぶんヘタなシステムが腰をすえて出来てしまうと、ついていけない

人が出てくるという件に世の中が気づいていない。


「国の発展のために競争は大事だ」という意見は「競争に参加出来る位置の人間の意見」だ。

「競争の大事さ」を偉そうに語る前に、まず「すべての人間が競争に参加出来る環境をつくれ」


ミサイルや銃弾が飛んでなければ平和だとか、戦争じゃないとかいうことは決してない。

血が流れなくとも内紛はもう確実に起きている。


殺し合いがなくとも、今の若者や弱者が置かれている社会は映画のバトル・ロワイヤルに

限りなく近い。周りを蹴落とし生き残ったものが、この国の強い者として生きる資格があると。


そして、このミサイルも飛ばず、虐殺も空爆もない静かで平和な世の中が

弱者の言い訳や訴えを封じ込める理由を作っている。

「こんな戦争もなく、物がある時代に生まれて何が不満なんだ」・・・と。


こんなようなオレの意見が、反対意見の人とぶつかりあうことがあったら、

それもまた思想と思想のぶつかりあうという、ある意味戦争かもしれない。