SUPERSTAR | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

もう20年くらい前になるが、当時話題になった「スペシャリスト」という
映画を観に行った。爆破のスペシャリストが爆弾を武器に悪党に立ち向かうというストーリー。

主役はダブル主演で Sylvester Stallone(シルヴェスタ・スタローン)と
Sharon Stone(シャロン・ストーン)
SuperStarが共演する「SPECIALIST」はまさに
S』が盛りだくさんだ!とパンフに書いてあった記憶がある。

たしかにこの2人の共演は当時それなりに話題になった。
ともに2人ともスーパースターには間違いないし。

でもスーパースターの定義とななんぞや?
映画やテレビに出ててカッコイイ人ならスーパースターなのか、それとも
実際は大したことない人でも映画やドラマの中で演じる虚像がヒーローならば、
それはスーパースターになるのか?
現実世界における我々の身近にスーパースターはいないのか?

今夜はスーパースター論について、ある曲をもとに語っていきたいと思う。
この時点で「なんだ!音楽で、しかも知らない曲の話かよ!」と思うかもしれないが
いろいろ聞いて欲しい価値観もあるんでちょっと我慢して最後まで読んで頂けたら幸い。

昔「親子ゲーム」という長渕剛主演のホームドラマがあって、そのドラマの主題歌が
「SUPERSTAR」というタイトル。
長渕の曲の中で大好きな1曲である。



聞いて頂ければわかると思うが、歌の中で「スーパースター」と謳っているのは自分。
でも別に正義の味方とか、市民革命を成功させたとか、ケンカ百戦錬磨とかいう武勇伝
ではない。そのヘンでイキがってるハタチそこそこの一般市民のガキンチョが自分だ。

歌詞を聞いてもいきなり出だしが
「裏町の片隅で、『く』の字にぶっ倒れちまった」である。

その他の部分を聞いても震えたとかイキがってたとか、情けなかったり弱かったり
どこにでもいるガキにしか思えないようなフレーズばっか。

だけど最後に 「I'm a SuperStar」
オレはスーパースターだと謳う。

この「アイムアスーパースター・スピリッツ」がオレはスゴイ好き。

自分のことをヘタレだと弱い部分は認めたうえでの自らへの勢いづけ。
誰も褒めてくれなくても誰からも憧れられなくてもオレはオレが好きだという
憎めない可愛らしさをすげえハートに感じる。
たとえ1人でもオレはオレを最後まで応援するというような。

長渕がこの歌の中で歌っている人物は自分にコンプレックスをもってて
自分のことを虚勢張ってる情けない奴だと思っているけど、そういう部分をすべて
ひっくるめて自分の事が好きで、オレはスーパースターだと明るく思うキモチがわかる。

自分のことが大好きだという人に対して、よく
「ナルシスト」だとか「勘違い」だとかいう人間もいるが、
「自分が大好き」「オレが・ワタシがスーパースター」だという気持ちは大事だと思う。

ただ、モノゴトや発言を表面からしかとらえることが出来ない人間は
「自分が好き」ということが「自分が正しい」「自分が頂点だ」と言ってると誤解する。
「自分が好き」と言ってる人間は決して「自分が正しい」とか「自分がかっこいい」とか
言ってるワケでも思ってるワケではない。一部いるかもしれんが…。

何をやってもダメ人間であろうがブサイクであろうが「自分が好き」という現象は存在するのだ。

というかオレはオレ自身が「自分好き」であるから言うワケではないが、
逆に「自分がキライ」という人間が得意ではない。あまり深く関わりたくないのである。

これは誰に影響されたとかいうわけじゃなく、オレがずっと前から持っている哲学だが
一番身近にいて一番長く付き合ってる人間を嫌いと言う人(要するに自分自身が嫌い)
というような人が同性異性問わず他人を愛せるワケがない。

自分のことが好きだからこそ、同性の友人に優しくできたり異性を好きになる余裕が
あると思うのだ。
もっとも身近で付き合いの長い人間(自分)を嫌うような人は、
他人に優しくしたりする余裕はない。

今までに仕事でプライベートでもオレに対して
「オマエの○○なところがイヤなんだよ」とか細かい説教とかしてくる人間もいた。
それはそれである意味親切忠告かもしれんので別に問題ないが、やけに姑みたいに細かいと
ちょっとイライラする。

そう言ってくる人間が別の機会で話した時に、ふと無神経に
「俺、自分のことがキライだからさぁ…」と言ってくると申し訳ないが神経疑うのだ。

「なんでオレは自分自身を好きになれないような奴から、オマエの○○なところが嫌いだと
言われなけりゃナランのだ」と。

「人に、オマエのどこどこがイヤだとか説教するなら、まず自分のイヤな部分を改善して、
そうゆう忠告を言う資格をつけてから言えよ」って。

自分にイヤなところがあるってわかってるくせに、好きになろうとせず平気で自分がキライ
とかいうような人間に説教されたオレは一体何なんだ!? …という気になる。

それだったら、まだ勘違いやナルシストでも本当に自分のことを好きな人間から
説教されたほうが納得いくわ。鈍感とはいえ本人に後ろめたさと矛盾がないだけ。

以前、ちょっと働いていた会社で、取締役でもあり上司でもあるタメの人と同行して
夜に銀座を歩いていたときに、このコトを言ってみた。
「自分自身を嫌いと言う人間が、他人や部下に優しく出来るはずないんです」
「自分のことを嫌いな人間は、他人を好きになる余裕がないと思うんです」と。

そしたら、そん時の上司の反応は、ウヤムヤだったんだけど、翌日また2人で同行してる時

「○○チャン(オレの渾名)さ、昨日言われたこと丸一日じっくり考えたよ…
同じ年のヤツから、あんな深い言葉言われたことなかったからさ…
オレは自分がキライだから言われてみれば今ままで周りにけっこう理不尽なこととか
言ってたかもしてないなって…」

と言ってきてくれた。

オレも同世代の知人や今までの同僚に同じことを言ってきたが、大体煙たがられるか
「固い話すんなよ」みたいにハナで笑われたりばっかだったんで、ここまで考えて
くれたのはすごく嬉しかった。
実際このタメの人はイヤな人ではなかった。

自分が好きというのは決して自分がカッコイイとかレベルが高いとか言ってるワケではない。
だから自惚れとかナルシストとかいうことではない。そういう人もいるとは思うけど。

自分が好きな理由はただひとつ 「自分だから」

だからオレはパッとしない人間だし、勉強もスポーツも出来ないけど、
オレの人生の主役はオレだから、オレも長渕の歌みたく自分のことを
「SUPERSTAR」
と思って生きている。

そして友達とか好きなままでいる余裕があるようにということと、
オレのもっとも近い存在で、これからもずっと長く付き合っていかなければならない人間は
オレ自身だからそのためにもオレはこれからも「自分が好き」でいたい。

自分が好きだ
そして世の中のスターはオレだ。

I'm a SuperStar!

いいんだよ、

勉強出来なくたって、運動出来なくたって、楽器が弾けなくたって、
モテなくたって、存在感なくたって、自分にとってのスーパースターは自分だと思って
いれば…
誰が「勇気のないスーパースターがいたらいけない」なんて決めた?

誰も人に対して「自分のことをスーパースターだなんて思うな」とかいう資格はない。

でも自分が一番偉いとか、まわりを見下すというのは勘違いだからダメ。

長渕も歌の中で「誰もが皆・・・」と歌ってたように、他の人もそれぞれ皆自分自身が
スーパースターなのだから。

スーパースターはひとり なんていう決まりもないんだよ。

結論、オレのSUPERSTAR定義。

「誰もが存在するだけで、すでにSUPERSTAR」


珍しく「オレっぽく」ないアツい文章になったから最後に口直し(笑)
「SUPERSTAR」と言えばコッチの曲も好きだなあ。

これは思いを寄せる相手の事をスーパースターと謳ってるんだよね?
最近改めてCDでこの曲よく聞いてる。

昔、ものまね番組でダニエル・カールがカツラかぶってカーペンターズの
お兄ちゃんのマネして歌ってたけど、そんときの顏がめちゃ似てた。