聖者の行進が聴こえる… | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

小学校の頃ボーイスカウトに入っていて夏休みとかに一団で地方のほうの

宿に泊まりにゆく企画とかがあった。


オレは何度も書いてる通り、大人数での行動や遠出が苦手であり

このころもそうである。

所属してたそのボーイスカウトの「団」も2,30人のスカウト(団員)がいた。

1人1人とは普通に誰とも話せるが、そういう問題ではなくあの集団になった時に

生まれる独特の空気がイヤなのだ。そのうえ、その集団でどこか遠くへ泊まりに行くなんて

苦痛以外の何物でもなかった。


そんな体質から現地の宿にて、夜みんなで食事する時も胃がきゅーっとなり、

腹が減ってないワケではないのだが、食べ物があまり喉を通らずに残すことが多く、

団の中でも「○○は少食」というイメージがどうやら着いていたらしい。

毎年、泊まり企画で宿で食事のたびに何かを残していた気がする。


そんな中、ある年での泊まり会の時、だんだん慣れてきたせいか、晩飯を全部食べることが

出来た。だからといってオレとしては別にそれがどうとかはなかった。


だが、オレが完食したのを見た団を率いる中年の隊長が、

「みんな、○○を見ろ。普段は食べるの大変そうだけど、今回全部食べたぞ。拍手だ!」

と言った。

それを聞いた皆はオレをみて拍手した。


念のため言っておくと、この隊長は純粋にオレを褒めようと思って皆に拍手させたわけだ。

ふだん、スポーツでも勉強関連でもトロいオレなだけに、ここぞとばかりに皆の前で褒められる

場を与えてやろうと思ったと踏むし、拍手した皆も表情を見る限り、純粋に拍手といわれたから

拍手しただけであると思う。


だけど…

オレとしては正直屈辱だった。だって、ただ たまたま晩飯を完食しただけのことだし。

他の人は多分、晩飯を完食したところで拍手なんかされない…

その「特別扱い」と「「気遣い」がひとつの『差別』のような感じがした…



「差別」のボーダーというのは実は難しい。

ストレートに触れ過ぎても差別になるし、ヘタに優しくし過ぎたり特別扱いするのも

また、相手にとって屈辱的な差別になりうる。


近くにそういう施設でもあるのだろうけど、朝、家出る時に近所をよく

障害者の人と、その引率の施設の人が10人前後で歩いている事が多い。


ある時、信号待ちをしていたら、同じく横で障害者の人達と引率の人達も待っていた。

オレと彼らの間には、数人のサラリーマンや中学生などがいて、その周囲にもたくさんの

人がいた。


視界の隅で何か人がこちらに向けてやってるような動きが目に入ったんで、チラとみたら

障害者の男性のひとりがオレの顏をみて、笑顔で思い切り手を振っていた。



さて、この状況を一旦憶えて頂いておいて、ちょっと話は関連する別のものへ。


かつて野島伸司のTBSドラマにて「聖者の行進」と言うのが放映されていた。

いわゆる障害者とその施設をテーマにした作品であり、野島曰く、

「障害者」=「聖者」という設定である。


これも微妙と言えば微妙で、たしかに障害者にはピュアな人が多いが

(人間だから中には1部性格悪い人もいるかもしれないが)、ヘタしたら逆に

特別扱いという差別になるかもしれないと個人的に危惧した。

でも、どちらかというと野島の言う通り、確かに彼らは「聖者」に近いかもしれない。


例えば盲目の人は目が見えないぶんだけ、見た目とかに惑わされず

人と逢ってもその話し方や声だけで人間性を察する感性を会得してるというし、

耳の聞こえない人は、そのぶん体で空気を感じることが出来るというし、

それにかんしては本当にそうなんだろうなと思う。


そして、おそらく彼らには邪念や欲望がほとんどない。

見た目、見せかけに惑わされず本質を見抜く能力を持っているのは

オレらより彼らではないかと…


本当に本質を見抜くのは技術ではなく感性ではないかと。


オレは人を見抜くのがヘタである。

昔から新しい環境に入った時、このメンツの中ではアノ人が一番いい人だと

思った人が、だいたいサイアクな奴だということがのちのち発覚する。


この場を借りてついでに「人を見抜く」事に関する話をひとつしておこう。

先週の飲み会の時に友人が若い後輩をひとり連れてきた。

彼との意見で一致したのは「就活の面接では無能でもウソつけるヤツが生き残る」

とのこと。オレもウソと綺麗事が言えないだけに大学出て苦労したからよくわかる。


これを言うとおそらく、その役割を担ったコトある人はイイ気分でないだろうと思うし。

自分達が苦労したから負け惜しみだとか、極論過ぎるとか言いたい人も出てくるだろうが

多少ハッキリこういう意見もいう人間がいたほうがいいと思うし、正直過ぎて今でも苦労してる

新卒にラクになってほしいからあえていう。


よく世間ではアホのひとつ覚えや痴の一念のように

「面接官もずっとやってるから採用のプロで、人を見る目がある」という風潮。


そんなことはない!

過去に読んだ本で菊原サンと言う方がオレとまったく同じ意見を書いていた。


面接ではウソをつけ (星海社新書)/講談社
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面接官はそもそも、採用のプロでもなんでもない。

面接官が面接中に考えてるのは

「とっとと終わらせて本来の業務に戻りたい」

「要領良くウソつけるヤツ取っておけば社長からのオレの評価は安定だな」

だけである。

だから、新卒諸君!ヘタに凹むな!おそらく正解は君のほうだ。

まあ中にはしっかりした面接官もいるにはいる。10社に1人くらいだが。

ただそういうアタマの弱い面接官をうまく言いくるめるにはウソと技量は使わなければ

ならない。



そんな感じでちょっと脱線したが、人を見抜くのは簡単ではない。

どんなに優秀なカウンセラーでも本質や才能を見抜くには数日は必要なのだ。



だからホントにモノゴトや人物の本質を見抜けたり、捉えることが出来る人間ていうのは

技術や経験でもなく、どこかピュアだったり、ハンデを背負って起きてきたりする人間では

ないかと思う。

純粋という意味では幼児もそう。そうあって欲しい。


そういや、以前、北温泉という事に行った帰り、バイト時代の先輩が働いてる幼稚園に

立ち寄らせて頂いた時があった。

たまたま土曜保育みたいな時で、親御さんが働いてる家庭の子供2人を園が預かって

先輩が相手をしていた。

オレのほうもいきなり訪問した身であったんで、手伝いみたいなもので半日くらい、

その2人の相手をして遊んだ。


オレは先生でもなければ、そういう資格も経験もない。

でも遊んでるうちにその2人は「○○先生!○○先生!」とオレを呼んでなついくれた。


出かけてた女性の先生たちが夕方に園に戻って来た時、子供の1人がジャれて

喜びながらオレの片足のしがみついてるのを見て、帰って来た先生の1人が

「子供ってね、‘いい人’はしっかり見抜けるんですよ」

と言っていた。


オレがいい人かどうかは別として、言われてみれば自分が幼稚園や小学校1年の頃は

なんとなく醸し出してる雰囲気でなんとなく胡散くさいオトナにはなつかなかったような気がする。


その時に子供が好いてくれてることと、先生の言葉はとても嬉しかった。

タイミング的にもそん時は精神をやられてて、癒すための旅行の帰りであっただけに…

身内の人間にはわかると思うけど、あの横領痴漢常習のエタ白髪役員オヤジにね。



ここで再び朝の話に戻るのだが、

そのように信号待ちの時に、オレを見つけて手を振ってくれた障害者の男性…

もし、幼稚園の子供と同じように、なんとなくであっても‘オレだから’何かを感じて

手を振ってくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。

聖者に認められたのだから…

だとしたらこんなオレでもまだこの世に籍を置く資格はあるということだ。


純粋なだけでもたしかに彼ら彼女らは聖者かもしれない。

それは決して特別扱いとかではなく。



街のアチコチでカネを吐きだすためにレジスターが開かれる音…


サラリーマンを吐きだすために駅で満員電車のドアが開かれる音…


(そういえば誰だが忘れたけど、ある作家が停車した満員電車のドアから大量の

サラリーマンが吐き出されるのを見て、まるで豚の死体の腸をナイフで切ったら

たくさんの寄生虫がドっと出てきたみたいだと皮肉を言っていたのを思い出した)




街の空気を汚すあらゆる音を中和して浄化できる音は

彼らの「跫(あしおと)」だけかもしれない。


最近、ふと思うことがある。

純粋で、本質を見抜く彼らや彼女らこそが、事実、「健常者」であり

利権や過剰競争にパラサイトし、それに左右されて大事なことを失っているオレらのほうが

社会的に「障害者」なんじゃないかと…





今回はあくまで個人意見であり、一部の極論は意図的なんで批判コメは受け付けません。