10月に読売新聞だったかが主催で、作家の町田康とピース又吉を講師にしての
講演が池袋であるらしい。
テーマは「なぜ読むのか」
読書についての討論というか講義。なんと無料。
定員300名だが応募多数の場合は抽選。参加希望者はハガキかファックスで応募。
オレは2人とも好きなのでこれは是非行きたい。とりあえずハガキ出したんで当たる
ことを祈る。作家や本に興味ある人はまだたぶん間に合うので応募してみてはどうか。
そういえば直木賞受賞の辻村深月に関する話題もちょっと書こうかと前から思ってた
んだけど、それに関してだけだとオレの技量ではブログ1本ぶんモタナイから、ここで
ぱっと書いてしまう。
オレも筋がね入りの本好きまでいかないので、ここ最近、芥川賞にしても直木賞にしても
三島由紀夫賞にしても受賞して初めて名前を知った作家サンがすべてだったが、ここにきて
辻村は名前も知ってて、過去に作品も1つだけ読んだことがある作家サンだったから、
知ってる作家の受賞はなんか嬉しかった。
知り合いでもないし、オレがなんかしたワケじゃないが…
ちなみにオレが読んだのは「ぼくのメジャースプーン」という作品で、ちょっとファンタジー色が
あり、個人的にはあまり合わなかったのだが、全体レビューは高いようだ。
人柄的にも好感もてる。ちょっとシャクレてるのも御愛嬌(失礼w)
さてさて。
そんな本好き野郎どもアマどもにとってはなんとなく違和感のある話題。
「電子書籍」
ま、オレも別にデンジマンでもバイオマンでもないから、その辺の電子関連に詳しいワケ
ではないので間違った知識を仕入れてるトコロもあるかもしれないが、それを断ったうえで
語ってしまう。
とりあえずシステムや構成の流れで「電子書籍」って言ってるけど、機械のディスプレイの
中に吸収された時点で「書籍」ではないよーな気がしないでもない。
「カップ焼きそば」っていうけど、アレ別に焼いてないじゃんというような感覚で。コレ違うかw
なんでもかんでもネットやITや流行を批判するつもりはない。
そっちに移行したほうがいいジャンルだってちゃんとあると思う。
悔しいが「電子雑誌」や「電子情報誌」は存在して良いだろう。
映画館情報などのイベントなどは絶えず最新情報に更新されたほうがユーザーも助かる
だろうし、週刊誌などだと1週間のラグが発生するために、その間に状況が変わってしまう
ことがある。だからソレはあって良いと思う。
かつて情報誌を扱う仕事しててネット時代到来により苦労したし、もともと紙媒体が好きだから
ホントはそれも認めたくないのだが…
だが、やはり『小説』の類は断固、紙であるべき!
あの『紙』であってこそ、「小説」「書籍」なのだ。
オレはかつてタバコを1日2箱弱吸っていたが、ZIPPOライターを使用していた。
まだハタチそこそこのころ、最初はケチって100円ライターを使用していたのだが
どうせしばらく吸うのだから、たまには奮発してちょっと高いジッポー買おうと思い、
国分寺のマルイに買いにいったのだ。じっくりショ―ケースを物色してから選ぼうと
思ったのに、途中でキレイな女性店員さんに、「どんなライターお探しですか♡」とイキナリ
声を掛けられ、当時ウブだったオレは焦って
「あっ…、いや…その… あ、コレください…」
と言ってイチバン近くに飾られてた5000円のライターを買ってしまい、それをずっと
使っていた。ま、結果的に気に入ったから、それは問題ないのだが。
あ、オレの思い出話になってしまった( 一一)・・・軌道修正(爆)
大学でもバイト先でもそのジッポーを愛用してたのだが、同じ愛煙家の友人は皆それ観て
「ジッポーて使えば使うほど味が出て、手になじんでくるよね」と言っていた。
その通りだった。ジッポーは長く使うと良い具合に色やメッキが剥げてきて年季が出る。
また金属がフニフニになるワケじゃないが、掌にも馴染んできてしっくりくるようになるから
不思議。
紙の「文庫」「小説」も同じで長く読んだり持ったりするほど手に馴染んでくるのである。
前フリの例えが長くなったが…。
そうそう、革靴だって新しいうちは固くて痛くてぎこちなく光ってるけど履いてるうちに
柔らかくフィットして、いい感じのツヤと質感が出てくるでしょ。それも同じ。
「小説」も最初は表紙が光ってて紙も固いけど、手で支えて読んでるうちに手に馴染んでくる。
あのサイズのモノを左手で持ち、掌に乗せるようにして親指で左ページの下を抑え
人差し指で背表紙を支えるように読み、右手でページをめくる。
これが紙の小説を読む醍醐味なのだ。
手で持ちながら読むごとに紙も良い感じにスレてきて、色もまるでヴィンテージのように
褪せてくる。その過程も楽しみのひとつであり、自分は今、本を読んでいるんだと実感できる。
これは紙ならではの味。血の通わぬ電子文明では感じられない感覚である。
また、図書館とかで小説や書籍を借りて読んでゆくと、ページの中盤あたりで前に借りた人
の履歴(貸出表)が挟まっていることがあり面白い。
前に借りた人の性格や状況がサイコメトラーのようにわかる。
太宰の「津軽」を借りたときは挟まってた履歴をみると前の人は同時に「くじけない生き方」
という題名の本を借りていったようだ。
太宰にプラスしてその本だからいろいろ悩んでたんだろーなとか思ってしまった。
そういうのもわかる。
古本屋で哲学書買った時はアンダーラインが引いてあったら、ここで感動したんだろうなとか
ポテチのカスがパラパラ出てきたときは、くつろぎながら読んだんだろうなとか。
食いモンのカスはあまり気分良くなれんが…
そういや、ちょっと長めのミステリーを図書館で借りて何日も掛けて読んで、
後半の盛り上がってきたあたりで、ある1人の登場人物の名前がえんぴつで囲ってあり
矢印で 〔犯人こいつ] って書いて真犯人バラしてあった時だけはさすがに前に借りた
奴の所在確かめて、抹殺してやろうかと思ったが。
まあ、そんなふうに紙の本ならではの楽しみ方や醍醐味ってのがたくさんあるのですよ。
ディスプレイの中じゃアンダーライン引いたり、折り目つけたり出来ないでしょ。
絶版を防ぐために出版社が原本を電子で保存するのは十分アリだと思うけど、
そのまま商品にして流通させるのは反対。
「これからは本も電子だよ」とか「電子書籍の時代だよ」って言う人もけっこういるんだけど
そういう人って、もともと本を読まない人が多いんだよね…
今回の記事はあくまで個人の見解と意見です。
タイトルは内田裕也の「コミック雑誌なんかいらない!」を参考にしました。
映画観てないけどねw