
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
おはよう。
(これ以外、選択の余地なし)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
原文「おはよう(選択なし)」
今日のお言葉、きわめてシンプル。
Facebookの背景の写真は、シナモンがたっぷりとふりかけられたカプチーノです。
今日のお言葉のように、もしも私たちに「選択」の余地がないのなら…
私たちに「選択」そのものがないとしたら…
「選択」がなければ、あなたはどう振る舞いますか?
どう反応しますか?
「選択」がなければ、あなたは世界に対してどう接するのでしょうか。
もしも「選択」がなかったら、あなたとは何者なのでしょう…?
日本語の朝のあいさつは「おはよう」ですね。
日が昇ってからの時間の感覚に基づく表現です。
そして皆さんもご存じのとおり、英語での朝のあいさつは「Good morning」。
文字通りにはよい朝、素敵な朝ですね…という意味です。
朝、目が覚めて、もしも私たちの心から「選択」が消えていたとしたら…
想像するのがかなり難しくはありますが(笑)
σ(^_^;)?
それはどんな感じなのでしょう?
この「選択がない」状態を、ケイティさんは「よい good」と表現しているのではないでしょうか。
そんな表現としての
「おはよう Good morning」。
私にはそんなふうに思えます。
それは、私たちがこれまでの自分自身の経験から判断した「よい」ではありません。
私たちの主観的な心地よさでも、美しさでも穏やかな静けさでもありません。
そうしたものは、すべて私たち自身の経験から導き出される、つまり「選択」された結果としての判断なのです。
何をもって「よい」とするのか。
その判断、つまり「選択」を放棄したとき、私たちの目に映るものを「よい」と呼ぶ。
むしろそのようなとき、私たちは目に映るあらゆるものを「よい」と呼ばざるを得ません。
まさに、それ以外の「選択」はないのです。
それが、葛藤の終わりです。
そのような観点から、ケイティさんはよく
「リアリティは私たちの考えよりも優しい」
「目の前のリアリティ、それが私にとっての『神』なのです」
などと言うのだと思います。
「それは実際に起こったのですから、起こるべきだったのです」
ケイティさんはこのようにも、よく語っていますね。
その出来事が、結局は私たちの成長の糧になるから…という理由ではありません。
もちろんそうした見解を否定はしません。
しかし、それはまた別の次元のお話。
「選択」がないとき、起きた出来事はすべて「よい」のであり、起こるべきだったことがわかるのです。
言葉を変えれば、「選択」があるとき、私たちにとってケイティさんのこうした言葉は意味のわからない「謎」になってしまう…ということでしょう。
今日のシンプルなひとことが「難解」に思えるとき。
それは私たち自身に、「選択」があるときなのかもしれません。

