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私は「体」じゃない。
私は「誰でもない」。
それは確かです。
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原文「私は体ではない(それは確か)」


今日のお言葉、原語は
I am no body.
(I promise.)
です。

うだうだ解説しちゃうと、めっちゃ不粋な感じになっちゃうんですが…(笑)

原語の文では、「誰でもない」の nobody を、「no」と「body」に分けていますね。

「no」と「body」に分けると

「私は体なんかじゃない」

という意味になりますが、くっついた「nobody」なら

「私は誰でもない」

という意味になります。

おそらく、その両方を表現しようとしているのでしょう。

ということで、訳文ではふたつの表現に分けました。

もし私が「体」でないとしたら…
では私は誰なのでしょう?

愛に満ちた光?
神聖なる神の霊?
ま、とりあえず「体」なんぞでないのは確かなのですよね。

というわけで、私は「体以外の誰か」にはなれました。
安心、安心(笑)

…て。
Σ(-∀-;)

そうでした、そうでした。
いかんいかん!
私は「誰でもない」のでしたよね。

私は「体」でもないし、愛とか光とかの「概念」でもない。
私は「誰でもない」のです。

というわけで、私は「誰でもない」になれました。
安心、安心(笑)

…て。
Σ(-∀-;)

おんなじこと、しとるだけやんけーー(怒)

この無限ループ、なかなか抜け出せません。
一生懸命頑張っても、気づいたら「なにか」と化している…

しかし今日のケイティさんは、
「私は『no body』。体でもないし、誰でもない。それは間違いない、私が保証する」
と言い切ります。

「無限ループぢごく」で回転中の私たちとしては、ここまできたらもうケイティさんを信じるしかありません。

そうなんですか?!
私ゃ、相変わらずぐるぐるループ中なんですが…
そうなんですね?
あなたが「no body」なら、私もそうなんですよね??

ケイティさんが
「私は『no body』。それを保証する」
と言い切る根拠は、彼女自身の歩みにあるのだと思います。

ケイティさん自身が「ザ・ワーク」を生きた結果が、上記の力強い言葉なのでしょう。

それならば私たちにとっても、彼女が惜しみ無く開示してくれたそのやり方を試すことに価値があるのではないか…

そんなふうに思えた、今日のお言葉でした。


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このことについて、じっくりと考えてみてください。
もしも一切、過去や未来を考慮しなかったなら…

「人生は存在する」
ーそれは本当ですか?
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原文「以下について、熟慮しなさい。もしあなたが過去や未来を一切考慮しないなら、『人生は存在する』ーそれは本当ですか?」


過去と未来。
要するに「今」ではないものを一切考慮しない。
「今」ではないものを、一切、判断材料として用いない。

…そもそも、いったい私たちにそんなことが可能なのでしょうか。

実際にチャレンジしてみるとお分かりになると思いますが、そんなことはほとんど無理…(@_@;)
とさえ思えます。

そこでケイティさんは「熟慮」しなさい、という表現をしているのでしょう。

「熟慮」という日本語にしましたが、原語のcontemplate は、心を静めて対象に集中することを指し、「黙想」という訳語があてられることもあります。

お聞きになったことがあるかもしれませんが、この「黙想」は、キリスト教の精神修養としてよく行われるもので、「西洋流の瞑想」と呼ばれることもあります。

大枠として、いわゆる東洋の「瞑想」は、観察対象に集中することだけを意味しません。
東洋の「瞑想」には、最終的に観察対象そのものすらを心から取り除くことを目指すことを明確にしているものも多くあります。
そのような相違から、いわゆる東洋の「瞑想 meditation」と「黙想」は、必ずしも同じとはいえないのかもしれません。

…と、この話はこれくらいにしましょう。

今日のケイティさんは、この「黙想」をしなさいと言っています。

宗教者が真剣に取り組む「黙想」のような姿勢で臨まないと、「過去を一切考慮しない」のはなかなかやりにくい。

「過去を一切考慮しない」って、どういうことだろう?!
…ということに対して、あたかも修道僧のように真剣に集中して熟慮しぬく。
「黙想」する。

先ほどの「瞑想」の話に戻るようですが、「黙想」に真剣に取り組み、対象に集中し続けていると、そのような意図がなくても対象が心から生滅する瞬間が訪れることがあります。

キリスト教の「神秘家」と呼ばれる宗教者は、しばしば言語を絶する恍惚を経験したとされます。
数は非常に少ないですが、名前が歴史に残った人々ももいます。

東洋の「瞑想」と同じところをゴールにしていなくても、「黙想」によって、結果として同じ状態に行き着いてしまうことがあったのだと思います。

「過去を一切考慮しない」。
その体験のために、今日のケイティさんは「黙想」を勧めています。

そして、
「人生」は存在するのか?
という問いかけに対する答えの体験に、私たちを招いています。

「人生」または「いのち」。(原語は、ご想像のとおり life)

私たちが「もっとも大切」だと信じて疑わないその「life」…
それは何なのでしょう。
それは「存在」しているのでしょうか。

「黙想」によってその問いに向きあう。
…それはまさしく「人生を賭ける」ことになるのかもしれません。


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苦痛とは、怖れるものではありません。
理解するものです。
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原文「苦痛は怖れるものではなく理解するもの」


「苦痛」とざっくり言うものの、これは心身両方で感じる苦しみのことを指していると思います。

より平たく言うと、私たちが、なにがなんでも避けようとするもの…
それが「苦痛」なのではないでしょうか。

そんな「苦痛」、実は逃げ回るような「おそろしくて得体の知れない」ものではない。
それは、理解するものだ…

というのが、今日のお言葉です。

ケイティさんがいうその「理解」。
それも、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。

「苦痛を理解する」。
私たちのこれまでの常識で考えてみると、それは
「私がなぜ、何を苦痛に思うのか」
について解明する、ということになると思います。

自己探求をして、

ああ、自分はこんなことを怖れていたんだ。
こんなことが、いやだったんだ。
そしてその原因は、○歳のときのあの出来事だったのだ。

…そんなふうに、きちんと「解明する」。

私たちは、それを「理解する」と呼んできたと思います。

しかし、せっかく今日までケイティさんをフォローしてきた我々ですから(笑)
あと一歩、足を踏み入れてみましょう。

簡単なことです。
上記のように解明した「事実」について、問いかけてみるのです。

私は○○を怖れている。
私は○○がいやだ。

…それは本当でしょうか。

私の苦痛の原因は、○歳のときのあの出来事だ。

…それは本当なのでしょうか。

自己探求の結果を、こうした問いかけに始まる「ザ・ワーク」のプロセスのふるいにかけてみる。

そして自分なりの答えが出て、プロセスが「終了した」と、腑に落ちたとき…

そのときに、私たちは「真に」苦痛から解放されるのではないでしょうか。

少なくともその特定の「苦痛」からは解放される。
つまり、もうその「苦痛」から派生することを人生で繰り返すことはなくなるのだと思います。

それを、今日のケイティさんは「理解する」と言っているような気がします。