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「私を傷つけたのは、あなたじゃないの!」
…私がそう信じているなら、それは、私が私たち双方を傷つけていることになります。
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原文「もしも私が、あなたが私を傷つけたと信じるなら、私は双方を傷つけなければならない」


「私を傷つけたのはあなただ」
というその心を、ちょっと覗いてみましょう。

これはひとつの文章に見えすが、その心を覗くとなかみは一個ではありません。
実は、様々な思考の寄せ集めです。
そのなかで特にハバをきかせているのは、以下のようなものでしょう。

「私は傷ついた」
「私がこのように傷ついた責任は、あなたにある」
「傷つけるというのは、悪事である」
「従って、あなたは私に対して、悪事を働いたのだ」

途中のプロセスは省略しますが、このような考えに対して問いかけていくと、結論は以下のようなものになることでしょう。

私を傷つけたのは、私だ。
私がこのように傷ついた責任は、私にある。
そしてもし傷つけるのが悪事というなら、私は私に対して悪事を働いたのだ。

そうですね…。
なんと、全部私の自作自演。
私があなたを、私の働いた「悪事」の犯人に仕立て上げていたのです。
いやはや、水戸黄門ものけぞる悪役っぷり!

「あなたが私を傷つけた」と信じるのは、無実のあなたに罪を着せるようなものです。
無実の人に濡れ衣を着せるなんて、それこそ立派なまさに「悪事」じゃあ…
( ; ゜Д゜)

私は私を傷つけている。
そしてあなたに、その罪を着せている。

いったい誰が、誰を傷つけているのでしょうか?
どうやら「あなたが私を傷つけた」のでは、なさそうですね…
(´д`|||)


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私には、ここにいる私が見えます。
あちらにいる私も見えます。
どちらの私が、実物なのでしょう。
ここの私?
あちらの私?
それとも、どちらの私でもない?
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原文「私はここに私を見る。あそこに私を見る。どちらの私が本物なのだろうか。ここのほうか。あそこのほうか。それともどちらでもないか」


どこにいる「私」が、本物なのでしょう?
今ここにいる「私」と、どこか別の時、別のところにいる「私」。

(^○^)フォーフォフォ!!
ケイティさんたら。
その手は桑名のやきはまぐりですよん♪

「今ここにいる私」がホンモノに決まってるぢゃーありませんか!

ね、ねっq(^-^q)

…。
…でもなんか引っかかる。
最後についてる一言が、ミョーに引っかかる。

「どちらの私でもない?」

「今ここにいる私」も、ホンモノではないかもしれない…ってこと??

おかしい。
そ、そんなハズは…(焦)

だってケイティさん、よく「私は今にしかいない」とか言うぢゃんよーー
(;>_<;)汗

…たぶん、今日のケイティさん(そしていつものケイティさん)が私たちに目を向けててほしいのは、「私」のほうではないでしょうか。

ホンモノの私は「どこ」にいるか?
の「どこ」よりも、いると思っている「私」とは何者なのか。

そこに、目を向けてほしいのではないのかな…と思います。

今ここにいようが、あさってにいようが、その「私」が「私についての私の考え」なら、それは本物ではないでしょう。

それが「『今ここにいる私』という『私の考え』」ならば、もうその時点でそんな「私」は「今ここ」にはいませんよね。

その「私」の居場所は、「今ここ」ではなくて「私の頭の中」です。

私の頭の中の、「今ここ」と名付けられたファイルに収納されている「なにか」が本物の私とは、とうてい思えませんよね…
f(^_^;


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「でも、私が夢をみることはできますよね?」

いいえ。
「あなた」って、夢みられているものじゃないのかしら?
「自分の力でやっている」と考えるのをお止めなさい。
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原文「『しかし、私が夢をみることができる。そうではないのか?』いいえ。『あなた』とは、夢みられているものではないのか?すべて自分の力でやったと思うのを止めなさい」


「あなた」って、夢みられているものでしょう?
「あなた」が夢をみているのじゃ、ないわよね。

いつだったかの回で、
「あなたは『生きられて』いる」
という表現がありましたね。
それに通じる今日のお言葉だと思います。

私は、自立した私自身の力で生きている。
まあそりゃ、生んで育ててくれた親もいれば、お世話になった方々だって数知れない。いろんなものに支えられ、大いなる自然、慈しみ深い母なる地球に支えられてここまで来たのは、もちろんよーーーく、承知しています。

しかし、いったい誰の足でここまで歩いてきたのでしょうか。
誰かにおんぶしてもらって、私はここまできたのでしょうか。

様々なものに支えられながらも、私は、私自身の足で歩いてきたのです。
そうです。
この、私自身の足で…。

と、い~カンジ(笑)に自己肯定感がアップしてきたところで、今日のケイティさんからツッコミの一言。

あなたは、「歩かれている」ものでしょ。
「歩いている」ものじゃなくてね。

Σ( ̄ロ ̄lll)))!?え"

だ、だってだって。
「歩かれている」って…
だってどう見ても、私は自分の足で歩いてますよ??
どう見ても、これは、自分の意志で自分の足を動かしてますよ??
ほら。
いちに、いちに…
ね??
前に、進むでしょ?!

(@_@;)????

あのね(笑)
「歩かされている」のじゃないの。
「歩かれている」のよ。

(((((((・・;)
は??
それ、おんなじことぢゃ…

だから。
「自分の力でやったと考えるのを止めなさい」って、言ってるでしょ(笑)(笑)

確かに、私は自分の力で自分の足を動かしているように思えます。
自分で夢をみて、自分で生きているように思えます。

…しかし、そもそもその「自分」とは、何者なのでしょうか。

自分の意志による力で、歩いたり、夢をみたり、生きているようにみえる「私」。

その「私」には、確かに独自の意志とそれを実行する力があるように思えます。

しかし、本当に、その「私」が足を動かしたり、夢をみたり、生きているのでしょうか。
…つまりその「私」は、本当に「私を動かす力の源」なのでしょうか。

本当に、その「私」が私を動かしているのでしょうか…?!

もしその答えが「ノー」だとしたら…

では、いったい誰が、もしくは何が、私を動かしているのでしょう?

それが、私が考えていたような「私」ではないとしたら…??

もしこの「私」が、実は私とはなんの関係もないとしたら…

私は「歩かされている」という表現は奇妙な感じがしてきます。

というのも、「歩かされる」とは、私自身が阻害され、何か別の力で無理やりさせられることを意味しているからです。

もとよりその阻害される「私」なるものがない、あるいは私にはなんの関係もないとしたら…

なるほどケイティさんが言うように、私は「歩かれる」という表現はしっくりきます。

自分の力で歩いているのでもない。
さりとて無理やり自分以外の力で歩かされているのでもない。

私は「歩かれる」。

(*゜Q゜*)
むむ。

なんだろ、この楽チンな感じは…(*´ω`*)