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「原因と結果の法則」以上に、素晴らしい先生はいませんよ。
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原文「『原因と結果』は最も素晴らしい教師」


原因と結果の法則。
というと、なんだか小難しいモノのようですが…

この世界では、なにもかもがこの「法則」に従っていますよね。

わけもなく、偶然に…
などという表現も、時々耳にすることがありますが、実際に「わけもなく」「偶然に」起こることはひとつもありません。

落ち着ついて考えてみれば、すべての事象にはそれなりの原因があるのです。

今日のケイティさんはこの「法則」を、
「最も素晴らしい教師」
と呼んでいます。

教師、と呼ぶからには、それは私たちになにかを教えてくれる存在のはずですよね。

…それは、何なのでしょう。

ケイティさんの「ザ・ワーク」を実践していると、あることに気づきます。

それは、どうやらすべての原因は私にある、ということです。
原因は私にある。
より正確に言うならば、原因は私の「考え」にあるらしい。

この「私の考え」が原因となって、目の前に「私の人生」が結果として展開するのです。

「原因と結果の法則」という先生は、たしかに非常に優れた、理想的な教師といえると思います。

この教師は、一切の批判や非難をしません。
ただ、私の目の前に展開するものには原因があると示すだけです。

私が誤って、その原因が私の考えではなく、他人や環境のせいだと判断しても、怒ったりしません。
私がひねくれたり、被害者ぶっても、まったく態度を変えません。

ただ淡々と、ひたすら、その結果には原因があると教え続けます。

生徒を批判や非難せず、いつも変わらぬ一貫性をもって教え続ける。

原因と結果の法則…
たしかに、素晴らしい先生ですね。

しかし私たちは、しばしばこの先生の温厚さにつけこんで文句を言ってしまいます。

なんで自分にばかり、つらく当たるのか。
どうして私にばかり、いやな出来事が?!
人生は、なんて不公平なんだ!

…いえいえ。
原因と結果の法則に則った人生は、不公平どころか寸分違わず法則通りに、公正に流れているのです。

私たちが文句を言うのをやめて、冷静になればそれはすぐにわかるのですが、その冷静さを身につけるにはコツがあります。

そのコツ…
それはやっぱり
「それは本当ですか?」
と地道に問いかけることのような気がします。


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エゴが、「自分自身とは、本当は何者なのか」を発見したとしたら…
それが最後です。
もう「発見するもの」はなにもありません。
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原文「ひとたびエゴがその真のアイデンティティーを発見すれば、発見するものはなにも残されていない」


汝自身を知れ。
それが、最初で最後の究極の問い、ということなのでしょうか。

「エゴの正体」を探し求めることについては、今日のケイティさんはなにも語りません。

「エゴの正体」が明らかになったなら、もうそれ以上見つかるものはない。
それ以上探求するものはないと、言うだけです。

言葉をかえれば、私たちが何かを探したいと思うなら、私たちはまだ「エゴの正体」を発見していないということになるのかもしれません。

あちこち探しても、いっこうに見つからない。
見つかったと思ってもまた、探したい気持ちがムクムクとわいてくる。

そんなことを繰り返していて、ついには「エゴの正体探しなんてそもそも意味ないんじゃない?!(怒)」と投げやりになることもありますよね。

いずれにしても、鬱々と「何か探し足りない」という思いはくすぶったままなのですが…

「エゴの正体」がなかなか見つからず、とりつく島がないように思える理由のひとつは、おそらく私たちがあるはずのないところを探すからでしょう。

エゴってなんだっけ…
という点に戻って、ものすごく単純に言うならば、エゴとは「思考」です。

私たちが抱いている「思考」抜きにしては、エゴの正体をいくら探しても見つからないことでしょう。

思考に対して
「それは本当ですか?」
と問いかける。

このケイティさんの「ザ・ワーク」、いたってシンプルな方法ですが、思考に直接フォーカスするという観点でいうと理にかなっているなと思います


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「私とは、私が想像している『私』のことだ」
もしもそう信じているなら…
私はどんなことだって、信じるでしょうね。
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原文「もし私が、私とは私が想像した私であると信じるなら、私はどんなことでも信じるだろう 」


私は「私」を誰だと、あるいは何だと信じているのでしょうか。

コピぺ星人586号だろうと、クレオパトラの生まれ変わりだろうと、愛だろうと真理だろうとこの際なんだって構いません。

そういった「何か」が「私」だと信じるなら、あとは自動的になにもかも信じることになる。

自動的になにもかも信じる。つまり、なにもかも「本当」であり「実在する」と信じる。

このようにして私たちが「実在している」と信じているのが、私たちの目に映るこの世界なのではないでしょうか。

どうやらこの世界は、「私」を「なにか」と信じることからはじまるのですね。
まず「私」を「なにか」と信じる。
あとはなんでもかんでも信じるようになり、そのすべてが私にとって実在するものになります。
そのようにして「実在する」と信じられているもの…
それが、私たちの見ているこの世界。

なるほど、「この世界は夢やまぼろしのようなもの」とか「私たちの信念がすべてを作り出す」と言われるわけですね。

ではですよ??

そもそも私が「私」を、「なにか」だと信じなかったら、どうなるのでしょうか。

私はなにも信じなくなり、実在するものはなにもなくなり、世界は生まれないことになる…??

それは、ひたすら問いかけを続けた先にある体験なのでしょう。

それに名前をつけたり、形容することはできないかもしれません。

私が「私」を「なにか」だと信じなかったら…
私はどんなことも信じない。
まさに私は「なにも信じない」。

この「信じない」とは、疑ってかかるという意味ではありません。
ケイティさん風に表現するなら、「それが本当だと信じない」ということになるでしょうか。

本当だと信じないのは、証拠不十分だからではありません。
それが真実だからです。
それは「本当に」、本当ではないからなのです。

言葉をかえれば、それが「ありのままに見ている」ということになるのかもしれませんね。