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体は実存するものとして生まれるのではありません。
実存するものだと信じられるようになるのです。
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原文「体は実存へと生まれ出るのではない。実存へと信じられるのだ」


こんなお言葉を聞くと、「存在」って何なのかな…とあらためて考えさせられます。

それまで見えていなかったものが現れて出て私たちの目に見えるようになり、触れられるようになることを、私たちは「生まれる」と呼んでいます。
そしてそのように「生まれた」ものが「存在する」ものだと、考えています。

さらに、この「見えて触れられる」もののなかで、特に、「命」があるものが「体」と呼ばれます。
この「命をもつ体」は「生き物」といわれ、それ以外の無機物とは別格の扱いを受けていますね。

…と、こんなところが、私たちの「体」や「存在」についての考えではないでしょうか。

しかし今日のケイティさんは、「存在」の原因は「体となって生まれる」ことではない、と言います。
「存在」の原因は、私たちが「それは本当に存在している」と信じることにあると言うのです。

目に見え、または触れられて、体として活動しているから「存在」している…
のではない。
私たちがその対象に抱く「これは存在している」という信念こそが、「存在」の理由…

少々話が逸れるかもしれませんが、ここで、スピリチュアルな教えとしてよく言われることを思い出してみましょう。

「この世界とは幻であり、実在していない」
…というものです。

このような話を聞いて、私たちはまずこんな疑問をもちます。
「は?…だって、『ある』じゃん、世界。ここに『ある』よ?それがなんで『幻』なの??」

私たちは、「存在」の原因が目に見える形と密接に関連していると信じています。
私たちが何かを「ある」と言うとき、それは「可視である」という意味です。
網膜の視神経による映像だろうと、脳内の神経細胞による妄想だろうと、「可視」であるものは「存在」していると考えているのです。

だからそこ、今ここに「見えて」いる世界は私たちにとって「存在」するのです。

これを今日のお言葉に照らしてみましょう。

「見えている」ことが、「存在する」ことの原因ではない。
「見えること」=「存在する」
という私たち自身の考えこそが、存在することの真の原因なのだとしたら…

とすれば、確かにこの世界は目に見え、触れられますが、だからといってそれで「世界は存在している」とは言えなくなります。

確かに見える。
確かに触れられる。
そして、それは「存在する」こととは何の関係もない。
だとすれば、この世界が
「幻であり、実在していない」
という可能性は、充分にあることになります。

今日のお言葉の主語は「体」でしたが、ケイティさんはこうした「存在」についても、私たちの信念に問いかけ直してみるように語りかけているのではないでしょうか。
そんなふうに思いました。


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自らの思考を信じる…
それは、私たちが「限られた世界」という幻想の中に閉じ込められ続けている、ということです。
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原文「私たちは自分の思考を信じるとき、限られた世界の幻に囚われる」


「もし自分自身の思考を信じるなら」
という出だしは、似たものも含めてこれまでにもたくさんありました。

ケイティさんは、私たちが自分自身の思考を無条件で「本当だ」と信じることを、様々な表現で説明してくれているのですね。

今日のお言葉の写真(イラスト?)が、これまたいい感じです。
「限られた世界」、限定された世界という抽象的な表現を、具体的なイメージにして見せてくれます。

限られた世界…
それは、私たちが、自分自身の決断で、どの方向に進むかを決める世界です。

私たちが「自力で決める」選択は、限定的です。
選択肢は無限ある…かのようにみえて、結局、それらは全部私たちのアタマの中にある選択肢に過ぎません。
胸を張って「無限にあるんだもんね!」と言ったところで、その「無限」じたいが、実はかなり限られた自分自身のアタマの中にあるものなのですから。

私たちはこのような、「自分自身で決断して進む」ことを「自由」と呼んできました。

それが「限定されている」なんて考えもしません。
それどころか無限の可能性のなかから、自分の自由意志で選んでいるのだと誇りをもっているぐらいです。

ケイティさんはよく、
「なんでも自分がやっている、と思うのをやめてごらんなさい」
と言います。

なんでも自分がやっている。
なんでも自分で決断している。

…それは、本当なのでしょうか?

そして、自由って何なのでしょう??

それはきっと、私たちが自分自身の思考を無条件に信じるのをやめてみたときに見えてくるものなのでしょうね。


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愛とは、作用するものです。
それは明確で、優しく、努力を必要としません。
そしてそれを抑えることなどできないのです。
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原文「愛は作用。それは明確で、優しく、努力がいらない。そして抑えられない」


訳文では「作用」としましたが、原語は「action」です。
実際の身体的な行為、行動と理解することもできます。
ですので、「愛は行動」と読み替えていただいても問題ないと思います。
しかし今日のところは、あえて広い範囲をカバーする抽象的な「作用」という日本語にしてみました。

努力がいらず、しかも抑えられない。
この「抑えられない」の原語は「irresistible」。
ウムをいわさずなるようになる、それには抵抗することができない…そんなイメージです。

でも私たちは、
「一生懸命、○○を愛そうとした」
などということもありますね。

これ、今日のお言葉にはしっくりこない感じだなぁ~

もしも今日のケイティさんがいう「愛」ならですよ。
私たちがどうこうしようという以前に、気がついたら愛しちゃってて、
それにはなんの苦労もなくて、
しかもホンワリ優しい気持ちにはなるわ自分自身が愛しちゃってるのがバッチリわかるわで…

あらまf(^_^;
自分、出る幕ねー(笑)
がんばるとこ、まるでないわ~σ(^_^;)