昔なつかしい 本当の『豆腐について』四題

 

村上の豆腐好きは すごいものらしく、自身の他のエッセイで何度かとりあげております。以下に、よっつ紹介してみます。

 

 

 

『豆腐について:その1』

 

このコラムはずっと安西水丸さんに絵を描いてもらっているわけだけれど、僕としては一度でいいから安西さんにものすごくむずかしいテーマで絵を描かそうとずいぶん試みてきたつもりである。しかし、できてきた絵を見ると、まるで苦労の後というものが見受けられない。いくら苦労を見せないのがプロといわれても、少しくらいは「弱った・困った」という目にあわせて楽しんでみたいと思うのが人情である。

 

だからこのあいだなんか、「食堂車でビーフ・カツレツを食べるロンメル将軍」 というテーマで文章を書いてみたのだけれど、ちゃんとビーフ・カツレツを食べている、ロンメル将軍の挿絵がついてきた。

※:

 

 

 

それで僕は考えたのだけれど、結局のところ、むずかしいテーマを出そうと思うから、僕は永遠に安西水丸を困らせることができないのである。たとえば「タコと大ムカデととっくみあい」とか「髭を剃っているカール・マルクスをあたたかく見守っているエンゲルス」なんていったテーマを出したって、安西画伯はきっと軽くクリアしっちゃうに違いない。

 

それではどうすればいいか?  どうすれば安西水丸を困らせることができるか? 答えはひとつしかない。単純性である。

 

たとえば豆腐とかね。

  

新宿の酒場にとてもおいしい豆腐を出すところがあって、僕はそこに連れて行ってもらった時、あまりのおいしさに豆腐を四丁たてつづけに食べてしまった。 醤油とか薬味とか、そういうものはいっさいかけずに、ただ真っ白なつるりとしたやつをぺろっと食べちゃうわけである。 

本当においしい豆腐というのは余計な味つけをする必要なんてなにもない。

 英語で言うと

 

Simple as it must be.(あるがまま 単純に!)

 

というのかな。 これは中野の豆腐屋さんが料理屋向けに作っている豆腐ということだが、最近はおいしい豆腐がめっきりと減ってしまった。 自動車輸出もいいけど、おいしい豆腐を減らすような国家構造は本質的に歪んでいると僕は思う。

 

 

 

 

『豆腐について:その2』

 

安西水丸氏を絵柄の単純さで困らせるために、豆腐の話をつづける。

 

僕は実をいうと熱狂的に豆腐が好きである。 ビールと豆腐とトマトと枝豆とかつおのたたき(関西だと はも なんかがいい)でもあれば夏の夕方はもう極楽である。 冬は湯豆腐、あげだし、おでんの焼き豆腐と、とにかく春夏秋冬一日二丁は豆腐を食べる。うちは今のところ米飯を食べないから、実質的に豆腐が主食のようなものである。

 

だから友だちなんかが家に来て夕食を出すと、みんな「これが食事!」と絶句する。 ビールとサラダと豆腐と白身の魚と味噌汁で終わっちゃうわけだからね。 しかし、食生活というのは結局のところ慣れであって、こういうのを食べつけていると、これが当然という感じになってきて、普通の食事をとると胃が重くなってしまう。

 

うちの近所には手作りのなかなかおいしい豆腐屋があって、とても重宝していた。昼間に家を出て、本屋か、貸しレコード屋かゲーム・センターに行き、そば屋かスパゲッティー屋で昼食をとり、夕方の買い物をして、最後に豆腐を買って帰るというのが僕の日課であった。

 

おいしい豆腐を食べるためのコツは三つある。

 

まずひとつはきちんとした豆腐屋で豆腐を買うこと(スーパーは駄目)、もうひとつは家に帰ったらすぐに水をはったボウルに移しかえて冷蔵庫にしまうこと、最後に、買ったその日のうちに食べちゃうことである。 

だから豆腐屋というのは必ず近所になくてはならないのである。遠くだといちいちこまめに買いにいくことができないからね。

 

ところがある日僕がいつものように散歩のついでに豆腐屋に寄ってミルト、シャッターが下りていて、「貸店舗」という紙が貼ってあった。

 

いつもにこにこと愛想の良かった豆腐屋一家は突然店を閉めて、どこかに去ってしまったのである。 これからの僕の豆腐生活はいったいどうなるのだろうか?

 

 

 

 

『豆腐について:その3』

 

パリの主婦はパンの買い置きをしない。食事のたびごとに彼女たちはパン屋に行ってパンを買い、余れば捨ててしまう。

 

食事というのは誰が何といおうとそういうものなのだ、と僕は思う。お豆腐だってそうで、買ったばかりのものを食べる、宵越しの豆腐なんか食えるか、というのがまともな人間の考え方である。面倒だから宵越しのものでも食べちゃおうという精神が防腐剤とか凝固剤とかいったものの注入を招くのである。

 

お豆腐やさんだってそう思うからこそ、朝の味噌汁に間に合うようにと、朝の4時から起きて一生懸命おいしい豆腐を作っているわけなのだが、みんな朝はパンを食べるとか(うちもそうだ)スーパーの防腐剤入りの持ちの良い豆腐を使っちゃうとかだから、お豆腐屋さんの方だってはりがなくなってしまうのだろう。だから本格的なきちんとした、豆腐屋が町から1軒1軒と姿を消していく。

 

だいたい今どき、朝の4時に起きて働こうなんていう殊勝な人は、いなくなっちゃったものね。残念である。

豆腐といえば子供の頃に京都の南禅寺あたりで食べた湯豆腐がなんともいえずおいしかった。今では南禅寺の豆腐も「アンノン」風にすっかり観光化されてしまったけれど、昔は全体的にもっと素朴で質素な味わいがあった。

 

父親の家が南禅寺の近くにあったので、疏水に沿ってよく銀閣あたりを散歩し、それからそのへんの豆腐屋の庭先に座って、ふうふう言いながら熱い豆腐を食べた。これはなんというか、パリの街角のクレープ屋台にも似た庶民のための素朴な精進料理である。

 

だから最近のコースにして五千円なんていうのは、なんだかおかしいんじゃないかと思う。だって、たかが豆腐じゃないですか?

 

たかが豆腐、というところで、豆腐はぐっと踏みとどまって頑張っているのである。僕はそういう豆腐のありかたがとても好きである。

 

 

 

 

『豆腐について:その4』 

 

このエッセイでは、村上の妄想が素敵です。絶対に笑います。

 

水丸さんの挿絵も、適当な褒め言葉が見つからないほどです。

奥さんの髪のほつれ具合が秀逸です。 

 

 

本文:

豆腐のいちばんおいしい食べ方とは何か? と暇なときに一度考えてみたことがある。答えは一つしかない。情事のあとである。

 

えーと、これははじめにきちんと断っておくけど、全て想像である。本当にあったことではない。経験談だと思われるとすごく困る。仮定の話である。

 

 

まず昼下がりに町を散歩していると、年の頃は三十半ばの色っぽい奥さんが「はっ」息をのんで僕の顔を見るのである。「なんだろう」と思っていると、その人の連れていた五つぐらいの女の子が僕のところにかけよってきて、「お父さん」なんて言う。よく話を聞いてみると、去年亡くなったその人の御主人が僕にそっくりだったらしいのである。

 

その人は、「これこれ、その人はお父さんじゃありませんよ」

 

と女の子に言うんだけど、女の子の方は、「お父さんだ――い」と言って、僕の手を離さない。

でも僕はこういうの嫌いじゃないから、

 

「それでは、しばらくのあいだ、お父さんになってあげよう」

 

なんて言っちゃったりして、みんなで公園で遊んでいるうちに、女の子が疲れて寝てしまう。

こうなると、あとはもうコースみたいなもので、

 

当然僕は二人の家まで送っていくついでにその未亡人と できちゃうわけである。

 

で、事が終ると夕方で、家の外をちりんちりんと豆腐屋の自転車が通りかかり、女は髪のほつれをなおしながら

 

「おとうふやさ――ん」

 

と声をかけて、絹ごし豆腐を二丁買い、一丁にねぎとしょうがをそえて、ビールと一緒に僕に出してくれる。それで、

 

「ちょっととりあえずお豆腐で飲んでてくださいね。今、お夕食の仕度しますから」

 

などと言うわけである。

こういう とりあえずの豆腐の色っぽさというのは何ともいえずいい。しかし僕にそっくりの男と結婚していた色っぽい未亡人を探すところから始めないと話にならないなあ。なんてややこしいことを考えているうちは浮気なんてできないだろうな。

 

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村上の『カンガルー通信』、そこにある意味がわかりましたか? 短い物語にも語るべき主題はある。

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使用書籍

村上朝日堂 (新潮文庫) 文庫 – 1987/2/27

村上 春樹 (著), 安西 水丸 (著)