世界の終りハードボイルド・ワンダーランドいかにして生まれたのか。

 

『自分の物語と、自分の文体』 村上春樹「雑文集」より。

 

 

 

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985と、先行する文芸誌(文學界』1980年9月号)掲載の「街と、その不確かな壁」1980についての自身の思いを書いている。この二つには、何か特別の想いが村上にはあるように感じられます。

 

「街と、その不確かな壁」は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中で、その一部として、【世界終り】として組み込まれることになりました。

 

 

 

既知のように、未完成版「街と、その不確かな壁」は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とは少し様式を変えて、あれから43年後の2023年の完成版 『街とその不確かな壁』※ として刊行されました。

 

 

 

※:『街とその不確かな壁』は、近年の村上の小説の中では、出色の出来だと、わたしは思います。

 

以前、このブログにかなり長めの文章を掲載しました。

 

村上春樹の新作『街とその不確かな壁』を読んでモヤモヤが残っている方の参考になるかもしれません。

2023-04-19 10:23:03

 

 

本文:

 

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説を書きあげたのは一九八五年のことだ。この小説のもとになったのは、その五年ばかり前に書いた「街と、その不確かな壁」という中編小説である。この「街と、その不確かな壁」という作品はある文芸誌に掲載されたのだが、僕としては出来がもうひとつ気に入らなくて(簡単に言ってしまえば、その時点では僕はまだ、この話をしっかり書ききるだけの技量を持ち合わせていなかったということになる)、単行本の形にすることなく、そのまま手つかずで放置されていた。いつか適当な時期がきたらしっかり書き直そう

 

という心づもりでいたのだ。それは僕にとってとても大きな意味を持つ物語でありその小説もまた僕によってうまく書き直されること強く求めていた。

 

でも、いったいどうやって書き直せばいいのか、そのとっかかりがなかなかつかめなかった。この小説にとって必要なのは小手先だけの書き直しではなく、大きな転換であり、その大きな転換をもたらしてくれるまったく新しいアイデアだった。そして4年後のある日、何かのきっかけで(それがどんなきっかけだったのか今となっては思い出せないのだけれど)僕の頭にひとつのアイデアが浮かんだ。「そうだ、これだ!」と僕は思って、さっそく机に向かい、長い書き直し作業に取り掛かった。

 

 

この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説は、「世界の終り」「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの異なった物語によって成り立っているわけだが、「世界の終り」の部分は中編小説「街と、その不確かな壁」の枠組みをほぼそのまま用いている。そしてそこに、新たに「ハードボイルド・ワンダーランド」という物語が付け加えられることになった。まったく違う二つの話をくっつけてひとつの話にしてしまおう、というのが僕の基本的なアイデアである。

 

二つの話はぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う文脈で進んでいくのだが、最後はぴたりと噛み合ってひとつになる。どうやってそれらがひとつになるのか、読者にはなかなかわからない仕掛けになっている。

 

 

問題は―――これはどう考えてもかなり大きな問題であるあるはずだが―――それらがどうやってひとつになるのか、作者にも かいもく見当がつかないという点にあった。

 

でもまあいいや、そのうちに何とかなるに違いないという極めて楽観的な見通しのもとに、僕は頭から小説を書き始めた(ご存知かもしれないが、楽観的な精神は、小説家にとって不可欠な資質のひとつである)。僕は二つの物語を並行して、変わりばんこ に書き進めていった。つまり、奇数章に「ハードボイルド・ワンダーランド」を書き、偶数章に「世界の終り」を書き、ということだ。

 

今にして思うと、僕はそれぞれの章を書くときに、身体の中の別々の部分を使っていたような気がする。

 

もっと大胆な言い方をすれば、

 

右側の脳を使って「世界の終り」(このブログを書いている わたしの独断解釈:ハード・システム;脳?の部分を書き、

 

左脳を使って「ハードボイルド・ワンダーランド」(独断解釈:ソフト・システム;心?の部分を書いた

 

ということになるのかもしれない。あるいは逆かもしれないけれど、まあそれはどちらでもいい。 

 

とにかく脳の(あるいは意識の)あっち側とこっち側を使い分けて僕は二つの物語を書いていったのだ。これは正直に言って、なかなか悪くない気分だった。

 

 

たとえば「世界の終り」を書くときには僕は自分の右側の幻想の中に沈潜する。これはひどく静かな話だ。物語は高い壁に取り囲まれた狭いひっそりした場所で進行していく。人々は寡黙に通りを歩み、あたりの音はいつもくぐもって いる。 ※:「くぐもって」って村上が好きな表現です。

 

それに比べると、「ハードボイルド・ワンダーランド」の部分はアクションに満ちている。スピードがあり、暴力とユーモアがあり鮮やかな都会生活の光景がある

その世界は僕の左側の幻想の中にある。

 

 

これら まったく異なった世界を かわりばんこ に書いていくというのは、僕にとって(僕の意識の運営にとって)極めて心地良いことだった。僕は気分がもやもやしているときに、ピアノの前に向かってバッハのインヴィテイションを練習することがある(下手だけど)。左右の手の指の筋肉を均等に動かすことで、純粋にフィジカルに、とてもすっきりした健全な気分になれるからだ。

この「世界の終り」「ハードボイルド・ワンダーランド」を書き分けている時の心地良さは、どことなくそのときの感じに似ていたような気がしていたように思う。

 

そして、そのようにして毎日、左右の頭(脳)と筋肉を動かしつつ、ふたつの対照的な物語を書き進めているうちに、だんだんその ふたつの物語が共振性を帯びはじめ てくるのがわかった。

 

つまり、ひとつの物語の中に存在する何かが、もうひとつの物語の中に存在している別の何かと、自然で自発的な結びつきのようなものを持ち始めてきたのだ。

 

これは僕にとってとてもスリリングで楽しい成り行きだった。うん、これでなんとかいける、と僕は確信した。それから後の作業はずいぶん楽なものになった。僕はただ自分の方向感覚を信じて、それぞれの物語を日々こつこつと書き進めていけばいいだけだった。

 

この二つの物語は 必ずどこかで一つに結びつくんだ、と僕は信じることができた。そして実際に、そのふたつの物語は最後で何とか結びついた。どのようにうまく結びついたか、それは実際に読んでみて確かめていただきたい。

 

 

 

我々はしばしば「魂」について考察する。アントン・チェーホフ「六号室」の中で、アンドレイ・エフィームィチと郵便局長の会話という形をかりて、自らに問いかけたのと同じように。

 

「魂」 は存在するのか? それは有限なものなのか、無限なものなのか? 死と共に消えてしまうものなのか、あるいは死を越えて生き残るものなのか? 

 

 *:村上は「魂」「こころ」「肉体」の間に存在する「何か」、と捉えているような気がします。

 

    「こころ」「魂」「肉体」(仮図)

 

そのような問いかけに対する答えを僕は、そしておそらくチェーホフ氏も、持たない。 僕にわかるのは、我々には意識というものがあるという事実だけだ。我々の意識は、我々の肉体の中にある。そして、我々の肉体の外には別の世界がある。我々はそのような内なる意識と外なる世界の関係性の中に生きている。その関係性は往々にして、我々に哀しみや苦しみや混乱や分裂をもたらす。

 

でも、と僕は思う。結局のところ、我々の内なる意識というものはある意味では外なる世界の反映であり、外なる世界とはある意味では我々の内なる意識の反映ではないのか。つまり、それらは、一対の合わせ鏡として、それぞれの無限のメタファーとしての機能を果たしているのではあるまいか?

 

 

 

そういう認識は、僕の書く作品のひとつの大きなモチーフになっているし、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という小説は、そのようなヴィジョン(あるいは世界観)がもっとも顕著な形で出たものであると言えるかもしれない。僕は一九八二年に『羊をめぐる冒険』という最初の本格的な長編小説を書いて、その三年後に、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を出版した。これを書き上げたとき僕は三十六歳で、これでようやく自分が一人前の作家になれたという気がしたものだった。

 

僕には書くべき自分の物語があり、用いるべき自分の文体があった。あとは力をためて、ただ書き進めていくだけだった。

 

この僕にとっての記念すべき作品が、ディミトリ・コワレーニン氏の手によってこのたび日本語からロシア語に翻訳され、伝統あるEKSMO社から出版されることをまことに嬉しく思う。ロシアの読者がこの作品を楽しんでくださることを、著者は心から願っている。

 

               《お終い》

 

 

参考‐脳機能資料:

 

体性感覚や運動機能からも明らかなように、脳の左右半球はそれぞれ身体の反対側の機能を支配・コントロールしております。

 

すなわち、右脳⇒左半身、左脳⇒右半身という構図です。現実として(外見上)、右脳に障害が起こりますと左半身の機能障害、麻痺が、 左脳ですと右半身に麻痺などが起こります。

 

ただ、近年の科学の進歩により、左右の脳半球は それぞれ固有の機能を果たしていることも徐々に明らかになっております。

 

ただ現時点で、「左・右脳半球で機能が異なる」ということが明確にわかっていることは二つしかありません。

 

その一つが、前頭葉(44野)の言語機能(運動性)で、

もう一つが、頭頂葉(39野)の空間認知機能です。

 

 

事実だけを かいつまんで記述しますと、左前頭葉の一部(44野)が障害されると言葉が出てこなくなります。ただし、相手がしゃべる言葉の理解は、ほとんど損なわれておりません。 一方、右の前頭葉44野が損傷されても 言葉の障害は(ほとんど)起こりません。(左半球の44野損傷での男女差、女性は男性に比較して障害の程度が少ないという論文もあるようです。 論文の信頼性? 知りませんが興味深くはあります。ただ、いかにも一般受けしそうな結果には気を付けましょう)

 

 

もう一つの機能片側の例として、右頭頂葉に障害が起こりますと、ヒトは自身の左側の視野での出来事・視覚像を「無視」するようになります。

これを、「半側空間無視」と言います。 当然、車の運転の場合には非常な危険が伴います。

 

 

 

自分が車のハンドルを握っていて、視野の左半分を認識できていないことを想像すれば、その危険性がわかると思います(例えば眼帯などで“左目を使えない”のとは、意味がまったく異なります)

 

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1年前の今日、わたしが upload したブログです。

 

1年前の今日あなたが書いた記事があります

『バースデイ・ストーリー』これは村上から、私たちへ投げかけたクイズのようなものです。

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使用書籍

1.村上春樹 雑文集 (新潮文庫) 文庫 – 2015/10/28

村上 春樹 (著)

 

2.世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上下)新装版 (新潮文庫) ペーパーバック – 2010/4/8

村上 春樹 (著)

 

3.「街と、その不確かな壁」 1980年文學界』9月号に掲載

 

4.『街とその不確かな壁』  ハードカバー – 2023/4/13

村上 春樹 (著)