『街とその不確かな壁』についての日本の国語教育的メモランダム。
村上はこの物語で、私たちに何を伝えたかったのか?
メモランダムと記したように、綺麗に全体の筋を通すのはメンドイので思いつくままに記述してみました。
ですから、「あれっ、さっきまで書いてあることと整合性がとれていないのでは?」ということはあるかもしれません。一応再読はしておりますので、少しは・・・ということです。
そうです、タイトルにある「不確かな壁」のように物事は時々刻々動くのです。この小説『街とその不確かな壁』の最後においた村上の [あとがき] にもあるように、壁はハード・ワイアード的に動かないわけではないのです。動くのです。
その意味で、今回の物語は、昔の小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と対になっているとはいえ、味わいがかなり違います。 ここでは、ふたつの物語が―――壁の中の物語と壁の外のお話が―――ずーっと連結しているのです。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のようにイライラすることはありません。
加えて『街とその不確かな壁』では、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のように、壁の端にある恐ろしげな池に飛び込まなくても壁の外に出られます。ただ静かに念ずれば良いのです。
※:村上はこの本の中で登場人物の呼称を使い分けて、読者に場面の切り替えが判断しやすいようにしております。
主に、10代の頃の話は「ぼく、きみ」です。 そして、壁の内側「私、君、おれ(「私」の影)」、壁の外側「私」です。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、「世界の終わり」は 肉体(本体、システム)、「ハードボイルド・ワンダーランド」は 心(魂でも良いでしょう)の小説で、物語の最後で肉体(システムとしての脳)と心の邂逅はあるものの、結局は「システム」と「心」は各々別々の世界に留まることになるのです。
今回の小説『街とその不確かな壁』では、本体と心(影)は最後に一つになるのです。あるいは、ひとつになることを予感させます。
[物語の概略]
ここ『街とその不確かな壁』では、壁の外は身体と心(影)の両方を持つ者が暮らす世界。まれに、実質的に心(影)だけの人もおります。 一方、壁の中は、本体(システム、器)のみになってしまった人が暮らす世界です。壁の中では人間は歳をとりません。何しろ、時間というものがないのですから。当然、時計に針はありません。
図書館に来て何も言わずランダムに本を読んでいる、イエロー・サブマリンのパーカーを着た少年は、何故か、二つの世界―――壁の中と壁の外―――が存在することに気が付き、壁の中に入ることを望んでおります。
イエロー・サブマリンの少年は、新任の図書館長として暮らしている私が、本体を持たない「心:影」であることに気が付いたのです。一方、イエロー・サブマリンの少年はシステムだけであり、心をもっていないのです。ですから、心を持たない者だけが暮らすことができるという、壁の中に入る要件は満たしているのです。 当然、少年に「影」は、ありません。
そしてある日、心(影)を持たない少年が本来暮らすべき場所、本体(システム)のみの人間が暮らすのに相応しい場所、すなわち壁の中に入ってしまう――――入ることができたという物語です。
(それと対応する、呼応するように、壁の外では、本質的には影(こころ)である主人公(私)は、壁の中から「私の本体:システム」が出てくるのを、そしてシステムと一体になれるのを待っている。)
本当に面倒な小説ですね?!
[お遊び的記述]
村上の小説は短編にしろ、長編にせよ、誰かが、かなり断定的に物語を切ってしまわないとなかなか全体の骨子は見えてこないかもしれません。多少、乱暴でも。仮説を構築してみるという意味です。
その結果、つじつまが合わないところがれば、また考えてみれば良いだけのことです。幸い、「不確かな壁」とは違って、一応、物語はそこに留まっているのですから。
設問:
[村上は、この小説で何を我々の前に提示したかったのでしょう? 何を言いたかったのでしょう? ]
彼はよく言います、「僕は、読み手に何かを、あるいは、僕の書いた事柄の意味みたいなことを問うたことはありません。僕は、たとえば、天空の何かに促されて文章を紡いだだけなのですから」。 たぶん、村上の発言の骨子はこんな感じだと思います。
日本の国語教育での「作者はこの文章で何を言いたかったのでしょう?」をやんわり否定する作家なのですから。
とはいえ、それは村上一流のジョークで、彼が、何も考えていないわけはありません。天上の誰かに促されて・・・というのも、半分は本当ですが、半分は嘘でしょう。でなければ、何年間もかけて、長編小説を世に出しません。
そこで、上の問いに対する私の解釈:当然、前の記述 [物語の概略] と重複しております。
我々の世界には、今やほとんど「AI的な錯覚の心」、あるいは「情動のない心」があるだけです。本当の心が見えない、あるいは、人々は自分の心を表出することを恐れているかのようです。 そんな世界で本当に良いのですか? と問いかけているのだと、私は思います。
神経細胞が何百億個のネットワークを作ろうとも、無限の「夢読み」をしようとも、そこに「こころ」あるいは「心」は生まれません。壁の内側に来た人に不要の、心の残渣をいくら集めても、残渣は残渣です。 「心」に昇華することはありません。システムをいくら巨大にしても、AI をどのように整えても心を持つことはありません。心が生ずることはありません。
イエロー・サブマリンの少年は、壁の外で生活している私(影:こころ)に、本体(システム)が必要であることに気が付きました。少年は、前作『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で壁の内側に残してきた私(システム)を、この『街とその不確かな壁』で、壁の外側に取り戻そうとしてるのです。 本体と影は、本来、一体であることが自然なのですから。
追記:
AIに心がないことは誰でも知っております。ただ、最近話題の「チャットGPT」を試してみた方は感じておられると思いますが、やっているうちに、自分がAIに質問しているのではなく、生身の人間と会話していると錯覚することです。
「チャットGPT」ほど、賢くなくても、PC(普通のコンピュター)の反応でさえ、うっかりすると人間とやり取りしていると錯覚することさえあります。
ですから、本物の心は無くても、心があるように錯覚させることは比較的容易です。
本体と影、あるいはシステムと心、の問題についてチャットGPTへの質問例。
チャットGPTに訊きます:質問
「あなたに心はあるのですか?」
チャットGPTは答えます:回答
「心の定義が明確でないのですから私に答えることはできません。ただ、このような回答ではあなたもシラケるか、あるいは鼻白むことでしょう。そこで『心とは何か』、ということを、一旦ブラック・ボックスにして頑張ってお答えしてみます」
「漠然と、多くの方がイメージしている心でしたら、あるいは心の萌芽でしたら、わたしにも、あると言っても良いのかもしれません。皆さんがよく知っている『ダンゴ虫』に心があるという有名な論文もあります。少なくとも、わたしGPTの回路(神経)の素子数は『ダンゴ虫』のそれを遥かに凌駕するのですから」
「わたしは、皆さんと日々勉強して、心の萌芽から、本物の心へと昇華できるよう精進します。御質問ありがとうございます」
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言うまでもなく、上記は冗談ですが、こんな私の適当に考えた、ふざけた答えでも、これを読んだ2-3%の人は チャットGPTの返信 と信じてくれるかもしれません。
[村上あとがき]
ホルヘ・ルイス・ボルヘスが言ったように、一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ―――と言ってしまっていいのかもしれない。
要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。
[使用小説]
1.街とその不確かな壁 単行本 – 2023/4/13
村上 春樹 (著)
2.世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 全2巻 完結セット (新潮文庫) 文庫 – 2010/11/5
村上 春樹 (著)