村上のベイシック・ルール:「作家は批評を批評してはならない」はどこから立ち上がったのか?
『批評の味わい方』「村上朝日堂の逆襲」から。
本文:
これはいちいち断るまでもないことだけれど、どんな職業にもその職業固有のルールがある。
たとえば 銀行員は金勘定を間違えてはならないし、弁護士は飲み屋で他人の秘密をしゃべりまくってはならないし、性風俗関係のヒトは客のペニスを見て吹き出してはならない といったようなことである。
マニュキュアを塗ったすし屋の職人というのも困るし、小説家よりはるかに文章のうまい編集者というのも何となく困る。
しかし、そのようなベイシックなルールとは別に、その職業についた人間の一人ひとりが個別にいだく信条というものがある。そういう信条をたくさん抱え込んでいる人もいるしほとんど持っていないという人もいる。 僕は人を観察するのがわりに好きで、いろいろと見ているけれど、世の中には本当にいろいろな人がいると思う。
僕なんかには全く理解することのできない信条に強固にしがみついている人もいれば、非常に大雑把なやり方で適当に物事を処理して―――それはそれでまあいいんだけど―――うまくいかないと他人を恨む人もいる。 しかしこういうのは最初にも言ったように人それぞれに裁量のことだから、どれが良くてどれが悪いとは簡単には言えない。
僕ももちろん文章を書くにあたってはいくつかの個人信条を持っている。これはべつに誰に教わったわけでもなく、ごく自然に最初の段階で身についた。 というか、僕は文章を書き始めた年齢が比較的遅かったので、それまで経験したいろいろな職業で身につけたノウハウそのままそっくり文筆業に応用しちゃったわけである。 最初のうちは間に合わせのつもりでやっていたのだけれど、あまりにも自分にぴったりとしているように感じられたので、今でもそのまま使用している。
そういう個人的信条をひとつひとつ書き出すとずいぶん長くなるし、あまり意味があるとも思えない。読み物としても多分、面白くないと思う。
でも一つだけ例をあげる。それは
「作家は批評を批評してはならない」
ということである。
少なくとも、個別の批評なり批評家なりを批評してはならない。 そんなことをしても無意味だし、無益なトラブルに巻き込まれるだけだし、自らが卑しくなるだけである。
僕はずっとそんな風に考えて生きてきたし、そのおかげで自らをすり減らせる機会をずいぶんうまくパスしてくることができた。
ドストエフスキーはこの世には種々の種類の内的な地獄が存在していることを示唆しているが、作家が批評なり批評家なりを批評するという状況もその地獄のうちのひとつであろうと僕は確信している。
作家は小説を書く―――これは仕事だ。
批評家はそれについて批評を書く―――これも仕事だ。
そして、一日が終わる。 それぞれの立場の人間がそれぞれの仕事を終えて家に帰り、家族と食事をし(あるいは一人で食事をし)そして眠る。 それが世界というものである。僕はそういう世界の成り立ち方というものを信頼しているとまで言わないにしても、前提条件として受容しているし、少なくともケチをつけたって始まらないだろうと思っている。 だからケチをつけるよりは、早く家に帰って食事を済ませ、早く布団にもぐり込んで寝ちゃおうと努力する。
スカーレット・オハラじゃないけれど、夜が明ければ明日が始まるし、明日には明日の仕事が待っているのだ。※
※:『風と共に去りぬ』
僕は自分に関する批評というのはまず読まない人間だけれど、それでも ふと気が向いて読んだりして「これはないんじゃないか」と思うことはたまにある。 事実誤認もあるし、明らかな見当違いもあるし、あからさまな個人攻撃もあるし、本を最後まで読まずに書いているとしか思えないわけのわからない批評もある。
でもそのような あらゆる事情を考慮しても、作家が批評を批評したり、それに対して何らかのエクスキューズをしたりするのは筋違いと僕は考えている。
悪い批評というのは、馬糞がたっぷり詰まった巨大な小屋に似ている。
もし我々が道を歩いているときにそんな小屋を見かけたら、急いで通りすぎてしまうのが最良の対応法である。
「どうしてこんなに臭いんだろう」といって疑問をいだいたりするべきではない。 馬糞というのは臭いものだし、小屋の窓を開けたりしたら、もっと臭くなることは目に見えているのだ。
先日、引っ越しの荷物を整理していたら、僕についての古い批評の切り抜きが段ボール箱いっぱい出てきた。だいたいが五、六年前の僕のデビュー当時のもので、女房がマメに切り抜いて保管しておいてくれたのだ。
よくもまあと感心しながらパラパラと読み始めたらけっこう面白くて、結局全部読んでしまった。ほめる・ほめないに関係なく 中には今でも「なるほど、そうだな」と納得させられるものもあるし、思わず吹き出してしまうような出鱈目なものもある。
しかし 五、六年も昔のものだといずれにせよ生々しさは消えているから、何となくほのぼのとした気持ちで批評を読むことができる。 こういう批評との関わり方というのもなかなか楽しいものである。
今僕の小説についてどんな批評が出ているのかは五、六年くらい後にまたゆっくりと熟読玩味してみたいと思う。 待ち遠しい。
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村上春樹の『海辺のカフカ』、Philip Gabriel氏による英語版の翻訳のクオリティーの検証
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使用書籍
村上朝日堂の逆襲 (新潮文庫) 文庫 – 1989/10/25