以前、このブログにおける

で、織田信長もなかなか優秀だな、という主旨のことを書きましたが、
率直な話、
【(織田信長とキャラが多少カブるといわれている)曹操の方が織田信長よりもはるかに優秀で、人材育成・活用面でも織田信長よりも一枚も二枚も三枚も上手ではないのか】
と思ってしまいますね。
というのは、曹操も、部下の育成がかなり上手かったと言われているからです。現代の某Y大手予備校でいうところの「段階的レベルUP式」的な人材育成システムみたいな運用をしていた節まであるんですね。関羽の首が呉国陣営から送られてきたときには、曹操は「俺もこんな部下が欲しかったなぁ…」という感じで嘆いて丁重に葬ったようですし。
一方、織田信長は、甲斐の武田家を滅亡させた際に武田勝頼父子の首が届いたときには、武田勝頼の首に対して、罵言を浴びせながら蹴りまでかましたとも言われていましたが、私としては、
【オイオイオイオイ、武田勝頼だって決して無能な部将じゃなかったわけだし(そうでなかったら、高天神城を落とす等して父親の武田信玄のとき以上に領土を拡張できなかっただろうし)、ある意味気の毒な事情もあったみたいだから、両手を合わせて黙礼する等、もう少し丁重に扱ってやんなよ。そんなんだから、いろんなところで反発されたりいろんな人の恨みを買ったりして反乱等が起こっちまうんだろうに】
というのが率直なところですね。
 
もっと言ってしまえば、幼少の頃から織田家と織田家に挟まれたような環境で育ってきた私としては、とりわけ「本能寺の変」で著名になっている明智光秀に対しては、私が子どもの頃から責める気には全くなれませんでしたね。
だって、皆様も想像してみてくださいよ、
会社で例えるならば、会社の社長から散々こきつかわれてパワハラみたいなことまでされたり、激務のために自分自身が過労死寸前にまで追い込まれた上に、自分の奥方が看病疲れのために亡くなってしまった挙げ句、
【オイ、テメーみたいな「キンカン頭」はもうすっこんでろ、テメーの親戚の会社でテメーが交渉の窓口になってたところ(長宗我部家)はもう気に食わねーから、買収していいように扱き使うなり植民地状態にする予定だわ】
【オイ、テメーみたいな「キンカン頭」は当面はあの「サル・ハゲネズミ」的従業員(羽柴秀吉)のサポートをしろ。でもって、ゆくゆくはあの会社(毛利家)を買収しろ。将来はその会社の支店長(出雲・石見方面)クラスに無期限で配属・転勤させてやるし、でもって〜、時と場合によっては〜、日本海の向こう側あたりに海外出張させてやるかもしれんから、よろしく頼むわ〜❤】
みたいな命令なり暗示的展望なりを賜わったら、どう思われますか??
私ならば、
【なんだよ、俺の面目丸潰れじゃねーかよ、しかも今までの努力の成果が全部パーになった上に、俺の全然知らねー僻地とか最悪の場合には海外とかに飛ばされる危険性まであるなんて、明らかに身の危険を感じざるをえねーよな、もうやってらんねーよ😥
もし石見銀山等が手に入る可能性があるにしても、どうせ本社グループ(信長をはじめとした最高首脳陣)から厳しいチェックを受けて不当に利益を搾取されそうなのは火を観るより明らかだし😥😥】
等と思わざるをえないでしょうし、正に「絶望感半端ねぇ〜」って感じにもならざるをえないと思います。
少なくとも羽柴秀吉はその事件を予知していたような節まであるようですし(事後処理の仕方があまりにも迅速果敢なので)、徳川家康についても然りです(事後処理の仕方があまりにも用意周到的なので)。
 
「本能寺の変」ないし「中国大返し」の後に勃発した、かの有名な「山崎の戦い」にしても、明智光秀軍は敗軍としては「よく頑張った」部類に入ると思いますよ。というのは、戦死者・負傷者の数は明智軍よりも羽柴陣営の方が多かったようですし。
ただ、羽柴陣営の方が兵数が多くて、かつ、明智軍の左翼が突破されてしまったことや、雨のために鉄砲が効果的に利用できなかったのが重大な敗因だったようですね。
余談ですが、合戦当時の明智軍は円明寺川を防衛線に設定していたことが近時では明らかになっていますので、「天王山」云々はさして重要な論点にはならないと思われます。
 
ちなみに、
四国の「長宗我部」家もかなり気の毒なところがありますね。というのは、特に「戸次川の戦い」で羽柴秀吉が派遣した軍監の仙石秀久の失態のとばっちりをモロに受けましたので。
私が長宗我部信親(長宗我部元親の嫡男で、源義経に匹敵する程に超絶イケメンだったそうで、その戦いで阿修羅の如く奮戦して、長宗我部家に属する将来有望な若い幹部候補的武者等と共に戦死してしまった気の毒きわまりない部将)の立場ならば、自分の影武者みたいな人間をおいてひそかに戦線離脱して、しかるべき筋(羽柴秀吉等)に対して、「すいませ~ん、あの軍監つかえね~し、全然信用できね~し、軍律違反みたいなことまでやってるから、あの軍監をクビにして誰か他の適切なお方を派遣していただくなりしていただけませんか。こちらとしては、わざわざ四国から犬死にしに九州まで行かされてるに等しいから、スゲー迷惑してるんですよ、お願いしますよ」みたいな感じで陳情して、部下等の関係者をひとまず退避・撤収させる等するでしょうね。若くて今後の貴重な戦力にもなりうる人材までも道連れにして無駄にしたくないですもん。

まぁ、長宗我部信親にしても「若気の至り」で一本気的な意思決定をしてしまったのでしょうし、気持ちは全く分からないでもないですが、個人的には、もう少し上手く立ち回れなかったのだろうかと思わずにはいられないですし、ある意味残念で仕方がないですね。冷たい言い方で非常に申し訳ないですが、いわゆる「四国勢」にとっては、所詮は「手伝い戦」で、かつ、「烏合の衆」化していて士気も高くなく、ましてや、あの戦上手で名高い島津軍を向こうに回して、いわゆる「アウェイ戦」を行うような状況なんですから、そこまで無理をして命を投げ出すような義理も義務もないわけでして。

余談ですが、私が軍監的な立場の人間ならば、「五丈原の戦い」のときの「司馬懿」や、「ベトナム戦争」のときの「北ベトナム軍」的な戦略を練って、できる限り守りやすい場所にじっくりと陣を構えて粘り強く長期戦に持ち込んだ上で、敵の補給路を分断させる等のささやかな妨害行為を行う等するでしょうね。島津軍は野戦に関しては「超絶お得意芸」と化してしたようですが、城攻め等に関してはそれほど得意ではなさそうなので、ガッチリと守りを固めて隙をつくらないようにした上で羽柴秀吉が超絶ブイブイ言わせていた頃に定番化しつつあった「物量作戦」で一気にサクッと制圧等してしまうのがもっとも無難かつ堅実ではないか、と考えます。

特にその点では、大友陣営に属していた岩屋城主の「高橋紹運」はかなり優秀ですね。というのは、わずか800人弱の守備兵でもって島津の大軍を向こうに回して城兵が皆玉砕するまでに粘りに粘って島津軍に3000人以上の死傷者を出させた上に、豊臣軍の主力部隊が到着するまでの「時間稼ぎ」に多大なる貢献をしていますので。そういう点では、高橋紹運は、戦術的にみれば惜敗したが、戦略的にみれば大いに成果をあげた、といっても過言ではないと思われます。実際、高橋紹運の功績は豊臣秀吉からも激賞されているようですので。強いて世界史的な例えをすれば、正に「『アラモ砦』のジャパニーズ戦国時代ヴァージョン」と十分に評価できるのではないか、と考えます(「アラモ砦」云々について興味のあるお方は、検索エンジン等でお調べになってください。戦いの戦果も何気にカブってますし)。また、同様の理由により、「関ヶ原・山中の戦い」の一種の「前哨戦」となった「伏見城攻防戦」において粘りに粘って大奮戦の末に玉砕した「鳥居元忠」も、上記の「高橋紹運」と同等の評価ができるのではないかと思われます。更に、同様の理由により、「関ヶ原・山中の戦い」の超直前期に勃発した「大津城攻防戦」において、西軍の精鋭部隊(立花宗茂等)を向こうに回して粘りに粘って大奮戦した、大津城主の「京極高次」も、上記の「高橋紹運」とほぼ同等の評価ができるのではないかと思われます。